海獣たちの青い空

海獣たちの青い空 第二話

2016/9/10

訓練船の搭乗員を無事救ったナガトは、掘削船を私的利用したとして上院議員議長に呼び出される。ナガトはイルカ種の権利向上を実現するためにも一歩も引かず、対決姿勢で挑む。その一方、シャチ種とイルカ種との軋轢は確実に大きくなっていた。イルカ種庶民の間に広がる不満の後ろに、とある人物の影がちらついていた……。

三年前の無念

夜、ナガトはキングサイズのウォーターベッドで寝息を立てる青灰色の恋人を、横目に眺めていた。全裸だった。股間に伸ばした手がすぐ振り払われた。普段なら無理矢理にでもスリットを触らせてくるというのに。

どうやら本当に寝入ってしまったようだ。「出なくなるまで」と言ったのはいったいどこのどいつだと悪態をつきながら、ナガトは口吻をウォータベッドへ沈める。それにしても今日はずいぶんと心配を掛けてしまった。慣れない大型船の操船で神経をすり減らしただろう。その上、自分を助けるために推進装置を身につけて飛び出したのだ。シャチ種用に設計されているので、ずいぶんと負荷がかかったはずだ。口には出さないが、相当疲労が溜まっていたに違いない。コウ自身が表に出さないこともありつい見落としがちだが、イルカ種の体力とシャチ種の体力には大きな差がある。これからはもう少し気を使ってあげないとなと思う。ただ、ナガトがそんな素振りを見せればコウはきっといい顔をしないだろう。

――私の心配をする前に自分の浅慮を治せば?

そう言うコウがありありと思い浮かぶ。確かに今回は自分が考えもせずに飛び出しすぎた。でも、目の前に助けを求めている者がいれば仕方がないではないか?

顔を上げたナガトは再び寝息を立てる恋人を見る。その体は自分と比べると丸みを帯び、つるりとした青灰色の肌に覆われていた。無骨なシャチ種と比べるとイルカ種は繊細だと思う。ナガトはふと思い出したようにベッドから身を乗り出すと、机の引き出しを開けてホログラフィック・クリスタルを取り出す。補助灯の光を受けたホログラムデバイスは変わらず虹色に輝いていた。ナガトはクリスタルを両手で包むと、祈りを捧げるように額に当てる。目をつぶり、あるイルカ種の少年のことを思い返す。

三年前のある日、ナガトは今朝と同じようにプールでストレスを発散させていた。一通りいつものルーチンワークをこなした後、突然呼び出しを受けたのも同じだった。当時のナガトは高等専門科を卒業して熱源管理局に入局後、四年目に入っていた。立場は熱源管理局資源調達室熱交換器課の課長だった。熱源管理局はドームの外にあるエネルギー源――地底のマグマに熱せられた熱水噴出孔などの高熱源――から得られる熱量を、ヒートパイプを通じてドームへと供給する役割を担っている。それは化石燃料や太陽光を利用できないギョクツドームにとって、ほぼ唯一とも言えるエネルギー源だ。中でもナガトが属する熱交換器課は、そのままでは使いづらい熱エネルギーを有用な電気エネルギーに変換する際に必要な熱交換器の新設、保守、運用を行う役割を担っていた。設備のほとんどはドームの外にあり、かなりのハードワークが要求される。素肌を晒せばあっという間に体温を奪う冷たい海水と、触れれば火傷では済まないヒートパイプ、一歩間違えれば押しつぶされかねない巨大な重機と格闘するのがその役割だ。課長は現場で職員を指揮する立場になる。時には自ら現場作業を行うことも要求され、体力とスピーディーな決断力が必要とされる。若いほど適しているが、当時ナガトはまだ二十を少し超えた程度だった。課長職に就くには若すぎるようにも思えるが、そこは代々熱源管理局の重要ポジションを担ってきた「ゴウサカ」姓を持っていることが大きく影響していた。「ゴウサカ」姓を継ぐナガトは、幼少の頃から熱源管理局の指導者となるための英才教育を受けていた。初等、中等科で義務教育を受けるのはもちろん、加えて熱源管理局専門のカリキュラムを受講し、高等専門科ではみっちり実地訓練も施されている。さらにナガトは海中作業のセンスがあったらしく、新入職員にもかかわらず時にはベテラン作業員をしのぐほどの腕前を見せることもあった。そういう理由もあって入局四年目にして課長のポジションに就いていたのだ。常人であれば「あいつは局長の主子だからな」と陰口をたたかれるのが常だが、ナガトは仕事が出来る上に猪突猛進型とも言える熱い姿勢が現場職員に気に入られたこともあって、すんなりと受け入れられたのだった。ナガトがドームの将来を憂いて上院議員に転身すると言ったときには、嘆きの声が多数上がったほどだった。

熱交換器課が担当する設備はあきれるほど量が多く、しかも故障があれば早急な対処が求められる。何しろ、熱交換器が不調になれば停電を招き、下手をすれば人命に関わることもある。突然の呼び出しは珍しい物ではなかった。ただ、そのときの呼び出し内容は日常とはかけ離れたものだった。機材の点検をしていたナガトの元に、部下の一人が駆け寄り息を切らせながら叫ぶ。

「か、課長! 大変です! ガンコウが、奴らついに反乱を……このままではっ!」

「頼むから落ち着いてくれ。ガンコウってガンコウドームのことか?」

「え、ええ。そう、そうなんです。定期点検に向かおうとしたらいきなり止められて……変に思ったんで、警備局のツテで探ってみたんです。そしたら……反乱があったらしいって! それで、課長に伝えないとと思ったんです!」

それはまるで世界が今すぐにでも終わるかのような取り乱しようだった。ナガトが急いで執務室に戻ったときには、世界の終わりに繋がる〝反乱〟が起こったことを全職員が知っていた。ナガトが大混乱に陥っている部下達をなんとか落ち着かせようとしていたところ、すぐに室長から呼び出しがかかった。室長室では緊張した面持ちの上長から、何が起こったのかを正式に伝えられた。

「ガンコウドームで反乱が起きた。イルカ種によって大気管理局が占拠され、居住ブロックに居たシャチ種五千人が死亡したとのことだ。緊急事態が起こった際にすぐ対応できるよう、君達に待機を命じる。なお、分かっているとは思うが、このことは機密情報だ。決して外部には漏らさないようにな」

目尻のしわが目立つようになってきた室長の口からそう告げられた。シャチ種の子供は歴史の授業で耳にタコが出来るほど、何度も何度も〝反乱〟について聞かされている。かつて海底ドームは六つあった。それがナガトが物心ついた頃には半減している。原因は全てイルカ種の〝反乱〟だ。海底という極限の環境で、人々はギリギリのバランスを保って命を繋いでいる。ひとたび騒乱が起き、社会構造が崩れるとすぐさま生存が脅かされる状況にあった。絶えず機器をメンテナンスし、生存環境を維持し続けなければ絶滅まったなしだ。そのため、ドームの子供、特に指導者である事を求められるシャチ種のエリート層は、社会の安定と規律ある生活を維持することの重要性について幼少の頃から聞かされて育つ。もし社会が混乱に陥れば大勢の人々が絶望の中でどのような死を迎えのかを克明に教えられる。あまりにも生々しく死を教え込まれるため、歴史の授業がトラウマになるものが出るほどだ。

シャチ種にとって〝反乱〟はまさにこの世の終わりを告げる恐怖の出来事だ。すぐ隣のドームで、それが起こっている。五千人というとシャチ種の約一割にもあたる数だった。そんなに多数の死者が出ているということは、ガンコウドームがすでに瀕死の状態にあることを意味していた。そしてそれは、ナガト達が住むギョクツドームの未来の姿なのかもしれないのだ。そのとき見た窓から射し込むライトの光は、心なしかいつもより赤みがかっているような気がした。

執務室へ戻ったナガトは、少しでも正確な情報を得ようと群がる部下を叱責し、いつでも船を出せる体勢を保つよう命じた。室長からはシャチ種の職員に対しては状況を説明しても良いと言われている。しかし、ナガトはそのことを口に出せなかった。もしかしたら、犠牲者は多くてもなんとか収まるのではないかという気持ちがあった。ガンコウが今まさに危機に陥っていることを伝えれば現実の物として受け入れざるを得なくなる。今振り返ってみると、それはエリートの弱さだったのかもしれない。何度追い払おうとしても食い付いてきた整備担当者は、どうしても教えてもらえないと悟ると不満げな顔を浮かべてドックへ向かっていった。ナガトがようやく書類とコーヒーカップに埋め尽くされたデスクへ戻ると、休む暇もなくマサヒトから声を掛けられた。当時マサヒトは、高等専門科を卒業して熱源管理局へ入局していた。そしてナガトの強い希望で熱交換器課に配属されていたのだ。高等専門科卒とは思えない童顔で、皆によく可愛がられていた。そのマサヒトの言葉は、ナガトにさらなる衝撃を与えた。

「ガンコウドームで化学兵器が使われたようです……」

マサヒトの声は震え、アイパッチが青ざめて見えるほど怯えていた。ことの重大さに一人で抱え込めず、上司であるナガトに話したのだろう。イルカ種に同胞を殺されたシャチ種が、イルカ種が多数住む居住区に対して毒ガスを使用したらしい。マサヒトから監視カメラの映像が送られてくる。嘔吐を繰り返し、やがて尾びれを痙攣させ絶命するイルカ種の映像に、ナガトは思わず目を背けた。ほんの数時間前のことだ。マサヒトの兄であるヨシヒトからのリーク情報だった。もし、こんな映像が世間に出回ればギョクツでも火の手が上がりかねない。そのとき、職員の一人から声が上がった。

「こんなことあって良いのかよ!」

どうやらマサヒト同様に通信局に親族を持つガラツというシャチ種の青年だった。ガラツの周辺に職員が集まり、方々で嘆きの声を上げていた。ナガトは急いで騒いでいる職員の元へと向かった。各所にコネを持っているシャチ種の職員に、情報を隠すのは無理だ。こうなってしまっては、ナガトも覚悟を決めるしかない。部下全員を集め、現状を伝える。イルカ種もシャチ種の反撃で多くの犠牲を出していることを説明したとき、職員の誰かが「いい気味だ」という声を上げた。それに対し、別の職員が馬鹿なことを言うなと叱責する。熱源管理局は外部委託という形はとっているもののイルカ種と関係することも多い。シャチ種が多数を占める部局の中では比較的イルカ種に対して理解がある方だ。それでもイルカ種を見下している者は居る。ナガトは個別に情報を得ることは禁止しないが、部外者、特にイルカ種に対しては決して情報を漏らさないように厳命する。

それから数日は膠着状態が続き、新しい動きはなかった。ギョクツドームからも事態を収拾するために仲介しようとしているが、ガンコウでも通信はシャチ種が独占している。連絡が取れるのはシャチ種だけでとても仲介しているとは言えなかった。また、ギョクツとガンコウの仲は良いと言えず、ガンコウ側が内政干渉を嫌ったことも介入できない要因となっていた。それからさらに一週間が経つと、事態は急展開を見せる。生活物資が不足し、進退窮まったイルカ種が特攻に出たのだ。海底ドームでは例外なくシャチ種が火器を独占していた。ただ、ドーム構造体にダメージを与える可能性がある高火力の兵器はそもそも作られていない。それに加え、イルカ種はシャチ種の約二十倍の人口がある。質では上回っていても数ではシャチ種が圧倒的に不利だった。人海戦術に押されたガンコウドームのシャチ種幹部が取った戦略は、卑劣きわまるものだった。イルカ種にドームを占領されるくらいならと辛うじてシャチ種の制御下にあった通信施設と輸送施設、それに発電施設を破壊し、自らは他のドームへ亡命したのだ。イルカ種どころか、同胞であるシャチ種の大多数を犠牲にした最悪の焦土作戦だった。シャチ種の中でもエリート階級は他のドームと多少なりとも交流関係がある。そして他のドームと交流出来るのは彼らエリートに限られていた。

彼らがそのような暴挙に出たのには理由があった。残る二つの海底ドーム、つまりナガト達の住むギョクツドームともう一つのハゼタドームの支配者層が、亡命を認めるのと引換えにドームの重要施設を破壊し、イルカ種に占領されないように〝処理〟することを求めたのだ。万が一、ガンコウドームがイルカ種に占領されれば、シャチ種が支配する二ドームに侵略してくる可能性がある。実際はイルカ種が占領したところで、シャチ種がいなければ船を操ることも、ドーム外の施設をメンテナンスルことも難しい。生き残れる確率さえ低いのに、侵略の可能性などほぼなかった。にもかかわらず二つの海底ドームは可能性をゼロにするよう求めたのだ。ガンコウ所属の航海用ビーコンが完全に沈黙したのを執務室で確認したとき、ナガトは荒れに荒れた。ナガトが執務室で寝泊まりを初めて十日が経っていた。

さらに数日後、ただ見守ることしか出来なかったナガト達にようやく出動命令が下った。熱源管理局が所有する船の半数を展開し、ドーム周辺を警戒せよとのことだった。突然の命令に不信感を持ったナガトが室長を通して局長であるナツメに探りを入れると、全滅したと思われたガンコウドームから船舶のスクリュー音が感知されたらしい。その音紋はドーム間の交易に使われる大型輸送船だった。スクリュー音はすぐに聞こえなくなり、現在位置は分かっていないとのことだった。百万の命と引き替えに身の安全を確保したガンコウの幹部連中は、そのときすでにギョクツ、ハゼタにたどり着いて保護されている。かなりの少数ではあったが、自力脱出したシャチ種の一部もすでに両ドームに受け入れ済みだった。船舶を保有する部局に命じられたのは、その輸送船がシャチ種であれば救助する、そして可能性としては非常に低いが、万が一イルカ種が操っているのであればすぐさま破壊しろというものだった。身勝手なその言い分に、ナガトは激しく反発し、すぐさま「搭乗者が誰であっても救出する」指示に変えるよう訴えたが、上層部の決定だとナツメは苦々しい顔で答えるだけだった。気丈な母の弱った様子に、その場は引き下がるしか無かった。今から思うと、知事キミトから余計なことをすると熱源管理局やイルカ種の立場が悪くなるとでも圧力を掛けられていたのだろうとナガトは思う。ただ、ナガトはナツメの立場を頭では理解しつつもどうしても納得は出来なかった。行動を起こせるのは自分しか居ない。今よりも更に若く、青臭かったナガトはそう思ったのだった。決心すればナガトの行動は早い。早速信頼出来る部下数名を集めると、新型の高速作業船を一人で操船出来るように準備させたのだ。

現場の指揮を課長補佐に任せるとすぐに独り輸送船の救助へと向かった。明らかに規則違反のため、部下を巻き込むわけにはいかなかった。訓練船救出の時とは異なり、このときはコウやナツメに知られずにこっそりと抜け出すことに成功した。むしろこのことがあったからこそ、二度目はコウに察知されたのだともいえる。高速作業船は訓練船の救出に使った掘削船から比べるとずっと小型で俊敏だ。設備に不具合が起こったときにすぐに駆けつけ、応急修理を行うことが目的の船なのでそもそも少人数でも運用できるようになっている。バリバリの現役だったナガトにとって操船することは造作もなかった。もちろん、救助作業を行うのならば一人ではとても無理だが、ナガトの目的は輸送船と真っ先にコンタクトを取ることだった。まだその輸送船の素性は判明しておらず、撃沈命令は出ていない。誰よりも先に直接コンタクトをとり、輸送船に同行してドームに案内すればそう強引な手段は取ることができないだろうと考えていたのだった。そしてすぐにその考えが甘かったことを思い知ることになる。

全速力で最後にスクリュー音が聞こえた地点に向かったナガトは、船外エコロケーションを使ってすぐに輸送船を発見した。最終確認地点からほとんど移動しておらず、浮上の勢いで少し進んでは着底し、また浮上するといったぎこちない動きを繰り返している。最初はスクリュー音を感知されないためにそんなことをしているのかとも思ったが、何かトラブルがあったのかもしれない。まずは音波通信を試みたものの返答は無かったため、ソナーアレイを展開した。これは全てが終わってから分かったことだが、このとき既にギョクツドームの行政執行部は輸送船に乗っているのはイルカ種の可能性が高く、たとえシャチ種であっても重要人物ではないと判断していたようだ。〝救う価値のあるシャチ種〟であれば基本的な操船方法は知っているのが普通だからだ。ただナガトは、〝救う価値のあるシャチ種〟が搭乗員だったとしても破壊するつもりだったのかもしれないと今になって思う。政治家になってドーム全体に目を配るようになってから初めて実感したのだが、ドームが維持できる人口は限界ギリギリだ。それに、外部の人間が入り込むとどんなやっかいごとが起こるか予測がつかない。たとえ同じ種であったとしてもギョクツドームとしては受け入れる部外者の数は最小限に留めたい。それが知事としての常識的な判断なのだろう。だがナガトは生存者が大勢乗った輸送船を破壊したほうが良いなどとは決して思わなかった。いくら限界だとはいえ、工夫次第でなんとかなる人数だ。もし、今また同じ状況になったとしても、三年前と同じように輸送船を助けようとするだろう。

結局、ナガトが音響パイプを繋ぐまで、輸送船からの返答はなかった。第一声は「助けてくれ」だった。悲惨な状況をまくし立て、救助を請うその声は必死だった。彼らをなだめながら通信用ケーブルを接続し、船内映像が送られてくるようになってようやく状況が判明した。彼らは予想通りガンコウドームから命からがら逃げてきたイルカ種の生き残りで、どうにかこうにか動きそうな輸送船を見つけて残る二つのドームのどちらかに向かおうとしていたらしい。

「俺らは元々の生活に満足していたんです。なのに、社会に溶け込めなかった一部のクズどもが勝手に反乱を起こしたんですよ! そのせいで、心優しい指導者の方々を傷つけちまってこんなことに……。いや、シャチの方々が俺ら灰肌の連中に腹を立てるのももっともなことで、罪を犯した者に罰を与えたのは理にかなったことだったと思いますぜ。だから別に恨んじゃおりません。むしろ高貴な方々を大勢失ったことの方に心を痛めとります。そのせめてもの償いとして、主人に反抗した馬鹿どもを捕らえてあります。おい貴様、こっちに来い! この方に土下座して自分の犯した罪を告白し、許しを請うんだ!」

映像回線が開くとほぼ同時に、そうまくし立てたのは肥満気味のイルカ種の中年男性だった。その醜く垂れ下がった顔面の肉はイルカというよりトドといった方が良く、若い頃には流線型だったであろう体型もすっかり丸くなっていた。所々茶色のシミに覆われた汚らしい皮膚に覆われたたるんだ胸の向こう側には、背びれが見え隠れしていた。すっかり筋肉が失われ、まるで内面が投影されているかのようにゆがんでいた。本当にここまで酷かったのかどうかは分からないが、卑屈で媚びた態度のこの男は、人の醜い面を集約したおぞましい姿としてナガトに記憶されている。名は忘れた。そんな男に連れてこられたのは酷く衰弱した少年だった。年齢で言えば今のユウキより少し上といった程度だった。両手はロープで縛られ、首には金属でできた鎖が巻き付けられている。横にいる中年男性とは違い、まだ張りのあるきれいな灰色の皮膚には無数の切り傷が付けられていた。中にはまだふさがりきっておらず、血と黄色っぽい体液を滲ませている新しい切り口もあった。画面に写されたナガトを睨む反抗的な目に含まれるのは恨みの感情のみで、媚びようとする姿勢は全く見られなかった。そんな少年の態度に怒ったのか、中年男性が少年の太ももを蹴り上げ、倒れた少年の腹を踏みつける。少年が上げる弱々しい悲鳴はいまでもナガトの耳にこびりついている。

中年男性の言では、この少年はテロリストの主導者の親類で、実際のテロ行為にも荷担していたらしい。ほかにも十数名程度〝テロリスト〟を確保しているとのことだった。カメラに写された〝テロリスト〟は皆傷ついて疲弊しており、中には顔面に大きな傷を負って片目をつぶされている者や、背びれの半分がない者、片足を失って尾びれを使ってどうにかこうにかバランスを取っている者などがいた。男によるとそのほとんどは自爆テロに失敗した者で、男とその仲間で作る〝義勇兵〟が捕まえたということらしい。さらに、義勇兵が助けた民間人約百五十人が船に乗っていることも伝えられた。

ナガトは嫌悪感を覚えつつも確約は出来ないが、ギョクツドームへ収容してもらえるよう執行部を何とか説得するつもりであることを伝えた。合わせて私刑はガンコウだけではなくギョクツにおいても法律に違反しており、治療が必要な者に対してはすぐさま応急処置を施すことを命じた。さらに、先ほどの少年が本当にテロリストかどうかを見極めるために一対一で尋問したいことも伝えた。男は最初、コイツは口が上手く、一対一では騙されてしまうと拒否したが、ナガトがこれが実現しなければ見捨てるとまで言ってしぶしぶ承諾した。輸送船に設けられた救命艇に少年の身を移すよう指示したときも、この男は「こういう輩は体に言い聞かせないと本当の事は話さない」と義勇兵の何人かを拷問役に付けるようしきりに訴えていた。ナガトはそのすべてを無視した。

「さっさと殺せよ」

それが少年の第一声だった。その挑戦的な言葉とは裏腹に、身体をぐったりとシートに預け、肩で息をしていた。申し訳程度に局部を隠す布きれ以外は何も身につけていなかった。もとは綺麗だったであろう皮膚には大小無数の傷が付き、腹部の白肌についた赤黒い裂傷はまるで海嶺のようだった。もしナガトが輸送船に居れば、男を絞め殺していたかもしれない。まず少年に対し、少年がテロリストだとは思っていないことを伝えた。少年は口元をほんの少し締めただけで、それがどうしたと言わんばかりの反応だった。その後ナガトは、あの男が保身のために少年達をテロリストに仕立て上げようとしていることは分かっていること、その男達に対してはギョクツドームに着き次第法律に則って適切な処分が行われること、なにより自分は少年の味方であるということを告げた。しかし返ってきたのは「俺はテロリストだよ」の一言だった。

「お前らから見れば俺はテロリストに違いないさ。お前、向こう側の人間だろ? あのクソ野郎と同じさ。奴らこそ高貴なシャチ種の方々にはお似合いの連中だよ」

反抗心むき出しの返答だった。だが、まだ子供の域を出ない精神にとってこの試練は重たすぎたのだろう。ナガトが我慢強く説得を続けると、ぽつぽつと心の膿を吐き出し始める。一度口火を切ると、あとは堰を切ったように少年は起きたことを話し始めた。反乱を計画したのは叔父で、その叔父は育ての親にあたるらしかった。当初は本気でテロを起こすつもりはなく、脅しだけで済ませるはずだったはずが、エスカレートした一部の連中が実行に移してしまったことを語った。目を血走らせ、語勢激しく暴走した仲間を罵るその姿は、叔父になりきっているかのように思えた。多数の犠牲者を出した上に、シャチ種からの報復を受けた叔父一派は引くに引けない状態に陥る。

「その頃から叔父はおかしくなった」

少年の声色に戸惑いが混じる。狂った叔父は失敗の原因を仲間に押しつけて糾弾しはじめ、自らの手で惨殺を繰り返すようになったらしい。信頼し、憧れてさえいた人が変わっていくのを間近で見るのはよほど辛かったのだろう。

「全部お前らのせいだ。お前らが全部奪ったんだ!」

その言葉に少年の思いが集約されていた。少年が好きだった叔父は、理不尽な圧政に耐えかねて仕方なく反抗を試みた。おそらく、その叔父はあまり精神的に強いタイプではなかったのだろう。使命感はあったのだろうが、政治経験はなく、協力者にも恵まれなかった。それでもなんとか頑張ろうとした結果、精神に不調をきたしてしまったのだろうとナガトは思った。もちろん彼にも責任はある。だが、そもそもの根本原因はシャチ種が搾取した結果であったことは明白だった。頭を下げようとしたナガトに対し、少年は激高する。

「謝んなよ! 偽善者が謝るんじゃねえ! お前が謝ったところで……そんなことされたてなあっ! 帰ってこないんだよ、みんなはっ!」

立ち上がって吠えたあと、ぷっつり糸が切れたように座り込む。

「絶対に許さないからな……お前も、裏切った奴らも、みんな殺してやる!」

それでもナガトは頭を下げるしかなかった。謝罪しても何も変わらないのは承知していたが、それ以外にナガトがしてやれることはなかった。ディスプレイを介して頭を下げるナガトに対し、少年は謝るなと泣き叫び、罵倒した。ナガトは、それで少年が生きながらえてくれるのならばそれで良かった。何かを恨み、憎んでも生きてくれた方が死ぬよりはマシだ。

この少年にとって、憎しみの対象はこの世の全てだ。シャチ種もイルカ種も元仲間も赤の他人も自分でさえ憎んでいるだろう。この少年の不幸は他人事ではなかった。近いうちにギョクツドームで同じ悲劇が起こらないとも限らない。目の前の少年のように社会を憎悪するものもいれば、希望を失って全てを諦めるものも既に大勢いるだろう。本気でどうにかしないといけない。ナガトが本心からそれを感じたのはこのときが最初だった。こうしてナガトは〝尋問〟を終えた。結局、少年は最後まで自分の名を明かさなかった。イルカ種は名前を自由に付けることさえ制限されていた。

輸送船が浮上と着底を繰り返していた原因は、バラストタンクの浮力を調整するベント弁の不調だった。船尾のバラストタンクから上手く水を抜くことが出来ず、前進しようにもまともに動くことが出来なかったのだ。輸送船の破壊を阻止するためにも一刻も早くギョクツドームへ運ぶ必要がある。作業艇のわずかな装備を使ってベント弁を修理しようとしていたとき、ナガトは不穏な音を聞く。小さなスクリューが水を切るときに立てる高音だった。熱水孔の偵察に使う小型ドローンによく似ていた。おそらく、輸送船の正体を探るために近くに居る船が送り出したのだろうとナガトは思った。その正体は確かにドローンだった。ただ、そのドローンの目的は偵察ではなく、輸送船の破壊だった。小型の探査ドローンに爆薬を取り付け、にわか作りの魚雷としたものだったらしい。輸送船に貴重な魚雷を使うのは勿体ないと判断したのだろう。爆薬を搭載した魚雷もどきは高速作業船とは逆方向から輸送船に接近していた。ナガトはにわか造りの魚雷が爆発して初めて自分のミスを悟った。

にわか造りだけあって爆発の威力は小さく、輸送船の横腹に小さな穴をあけただけだった。破損箇所から高圧の水が輸送船内へと流れ込んだが、大型の大気圧船の例にもれず輸送船は浸水対策として区画毎に耐圧扉を設けており、適切に対処すれば被害は最小に抑えることが出来たはずだった。しかし、一応の責任者であるはずの例の男は混乱するばかりでろくな指示を出さず、船内は叫び声と悲鳴で埋め尽くされていた。

ナガトが慌てて船外エコロケーションで索敵すると、防衛局の戦闘艇に取り囲まれているのが分かった。防衛局はドーム外の脅威に対処する部署だ。捕獲アームを搭載した治安維持が目的の警備局の船とは異なり、防衛局の船は戦闘に特化している。人類の故郷である地球でも使われていた〝潜水艦〟によく似た流線型をしており、高速かつ静音性も非常に高い。特徴的な船影を見てすぐにそれと分かった。輸送船を破壊するつもりである事は明白だった。彼らはナガトに対し、すぐにその場を離れて帰還せよという命令を送ってくる。ナガトはそれを無視し、作業船を破損箇所に近づけて補修作業を始めた。防衛局の命令は全てに優先する。例外はドームを支配する執行部だけだ。防衛局の出動には議会の承認がいるが、出動してしまえば指揮権は現場に一任される。当時のナガトが上院議員だったとしても防衛局の命令に逆らえば、最悪その場で殺されても文句は言えない。そのときのナガトは少年を救いたいという思いだけに突き動かされていた。硬化剤で何とか水の流入を抑えると、少年の尋問を行った救命艇に作業艇を近づける。その間、輸送船に何度も呼びかけを行うが、まともな返答は無かった。救命艇へ有線ケーブルを接続し、応答を求める。救命艇にまだいるはずの少年から、応答はなかった。

その後ナガトは、携帯推進装置を身につけて救命艇に近づこうとした。生身の同胞に対し、攻撃を躊躇するのではと思っての行動だったが、防衛局の指揮官は意に介さなかった。ナガトに対し形式上の最終警告を発し、魚雷を発射する。魚雷モドキでは効果が低いと分かったからだろう、今度は本物の魚雷だった。死が甲高い音を鳴らしながら迫ってきた。ナガトが身構える間もなく魚雷は輸送船のすぐそばで爆発した。爆発で開放されたエネルギーが気泡を生み、その気泡が崩壊した衝撃波によって輸送船の船体構造が一気に破壊される。ナガトの意識が回復したとき、輸送船は真っ二つに折れていた。ナガトの乗ってきた高速作業艇も原型をとどめないほどに破壊されていた。フレームはひしゃげ、スクリューはどこかへ行ってしまった。爆発地点からはそれなりに距離があったにもかかわらず被害が大きかったのは、高速化と低コスト化のためにギリギリまで強度を落としているためだった。目が覚めたナガトは体を動かして怪我の具合を確かめた。打ち身はあったが骨折はしていないようだった。偶然にも分厚い工具収納部が魚雷が炸裂した方向にあったからだろう。ただ、爆音で耳がやられエコロケーション感覚はまるで役に立たなかった。作業艇の照明はもちろん消えており、聴覚も失ったナガトは小さなハンドライトだけを頼みに輸送船へ泳ぐ。少年が居るはずの救命艇の外部ハッチへ手を掛ける。最初に少し手応えがあっただけで、簡単にひらいた。普通なら外部ハッチは圧力差によって開けるはずがない。浸水によって耐圧殻の中が海水で満ちていることを意味していた。船内に入ったナガトは最初、赤色灯が点灯しているのだと思った。天井に取り付けられた白色LEDが映し出していたのは、合金製の扉に下半身を押しつぶされた少年の姿だった。

その後、何が起こったのかはナガトもよく覚えていない。ナガトは気が付くと自宅のベッドに寝かされていた。後からコウに聞いたところでは、兄のキミヤスが救助してくれたらしい。コウとキミヤス、そしてナツメにこっぴどく叱られたが、それ以外のおとがめは一切なかった。あの輸送船は〝無かったこと〟になっていた。どのような処置が行われたのかは知らされなかったのだが、おそらく兄や母が動いてくれたのだろう。ナガトは業務中の事故で負傷し、数ヶ月間休職することになった。公式な処分は全くなく、口止めさえなかった。ナガトも事件の詳細が明らかになれば惨事を招くことは理解していた。輸送船の破壊を命令した者――おそらく知事のキミト――は決して許すことが出来なかった。だからといってギョクツドームを崩壊させたいとも思っていなかった。

あの事件があったことを示す唯一の証しは、ホログラフィック・クリスタルだった。ナガトのウェットスーツに入っていたといってコウから手渡されたものだ。アクセサリ兼記憶素子として一般に使われている市販品だったが、ギョクツドームで流通している者とは少し形式が異なっていた。データを読み出すと、植物園にしか生えていないような太い樹のたもとでイルカ種の少年が、青年に体を預けている画像がたった一枚だけ入っていた。ホログラフィック・クリスタルは失いたくない大切な情報を身につけておくために使われる。傷一つ無いきれいな肌を持つ少年は、ナガトが助けることの出来なかった少年だった。もう片方の青年は、少年の叔父なのだろう。鼻孔から目尻に掛けての特徴的な白い模様の途中に、まだ新しい傷が見える。画像の中の少年の瞳は、きらきらと輝いていた。それを見てナガトは泣いた。コウの胸を借りて泣くのは、これが最初だった。

涙に濡れたナガトの口吻をコウがそっと撫でる。いつの間にか起きていたようだ。とっさに離れようとするナガトの腕をコウが掴む。ナガトはその手を振り払い、涙を拭った。

復職後、ナガトは熱源管理局を辞めて政治家に転身した。ギョクツドームではまともな選挙活動をやっていては票は得られない。必要なのはコネと根回し、そして利益供与だった。直情型のナガトにとって、それは苦痛でしかなかった。しかし、イルカ種、シャチ種の双方にとっての悲劇を防ぐにはドームの中枢に食い込むしかない。そのための唯一の手段が政治だった。このドームにおいて、職業を選択できるのは地位ある親のもとに生まれた幸運な人間だけだ。政治に携わるとなると更に絞られ、少なくとも親族に政治家を有していることが条件となる。そしてナガトの生まれは政治家になることを許していた。であれば特権を行使し、その義務を果たさなければならない。自分のちっぽけなプライドを犠牲にし、ナガトは今の地位を手にした。イルカ種とシャチ種との間に立ちはだかる分厚い壁にくさびを打ち込もうとしたのだ。にもかかわらず、その第一段階ではやくも潰されそうになっている。自分の至らなさが悔しくてたまらなかった。そして、あのような凄惨な事件から何も学ぼうとしない知事キミトをはじめとした首脳陣に怒りを覚えていた。何もナガトは、今の体勢をひっくり返そうとしているわけではなかった。そんなことをすればドームの崩壊に繋がることくらい、ナガトも分かっていた。だからまず、イルカ種が絶望を覚えないで生きることの出来る社会になればと思っている。それはイルカ種だけではなくシャチ種にとっても利益になるはずなのだ。それを意に介そうとしないシャチ種にナガトは失望していた。

「俺達シャチ種は傲慢なんだよ。体がデカイからってそれがそんなに役に立つか? ちょっとばかり長く潜れるからってそれがどうなる?」

「……それは、君達だけじゃないよ」

コウが淡々とそういった。

「お前は同族に厳しいからな。いや、誰に対してもか?」

そう言ってふっと笑うナガトに対し、コウは軽く首を横に振った。表情はいつもと変わらずすましているが、どことなく影を感じた。コウもイルカ種評議会の次期代表筆頭候補というイルカ種の中では特権階級に位置している。おそらくイルカ種の中でも色々と問題を抱えているのだろう。

「なにかあったか? 俺が先に愚痴っといてなんだが、何かあるなら聞くぞ?」

「ううん。なにも」

「そうか。悩みは素直に言えよ。色々と言えないことはあるんだろうが、できる限り協力はする。ただ、俺とは別に好きな男ができたとかいうことなら話は別だぞ? 絶対に妨害してやる」

コウの下着に手を突っ込んで「あ、男だけじゃない相手が女でもな」と付け足す。柄にもないことを言ったせいでナガトは恥ずかしかった。それを誤魔化すためにつるりとしたスリットを乱暴にまさぐる。そんなことをすれば、鉄拳が飛んでくるはずだった。だが、ナガトは無事だった。悩みは相当深刻なのかもしれない。例えば、ガンコウのように本格的なクーデターの準備が進んでいる、といったことがあるのかもしれない。ただ、ナガトはコウを信用していた。そもそも政治家というのは騙し合いが仕事のようなものだ。だからこそ、確実に信頼できる人間を作っておくことが必要不可欠だった。ただでさえ直情型のナガトにとって、他人を疑うことしか出来ない人生など考えられなかった。ナガトにとっては信頼できる人間のツートップが兄のキミヤスと幼少の頃からの幼なじみでもあるコウだ。もしコウに裏切られでもしたら、ナガトは生きて行く自信が無い。

「ありがとう。まあ、本当に何もないんだけどね。ただ、君をどうやって搾り取ろうか考えてただけ」

コウがナガトの手を掴み、下着の外へと追い出す。「いよいよ鉄拳か?」と目を瞑って衝撃に備えていると、口吻が何かに挟まれる。驚いて目を開けると、コウに噛みつかれていた。

『口、開けて』

かすかに聞こえるクリック音でそう指示される。わずかに開いた隙間からコウの舌が侵入してくる。柔らかく、長い舌に口内を乱暴に蹂躙される。口蓋を嬲られるこそばゆさに、ナガトは噴気孔から抗議の声を上げた。

「最初に誘ったのはキミでしょ? さーて、次は……」

コウのねっとりとした瞳が自分の股間を見つめているのに気がついた。危険を感じたナガトは急いでトイレに行くといって立ち上がろうとする。ウォータベッドに手をつくと同時にコウが同じ場所に体重を掛ける。ベッドが沈み込んでバランスを崩す。次の瞬間、手が払われ、その体はぶよぶよとしたベッドに沈み込むことになった。

「自分から誘っておいてそれはないよね? 私が君を助けたとき、なんて言ったか覚えてる?」

「え、ああ、心配したとかそういうこと言って……」

馬乗りになったコウの尾びれが、ぴたぴたとナガトのももを打つ。コウは自らの水色のボクサーパンツに手を掛けると、ゆっくりと手を下ろしていった。現れたスリットは体液でぬらぬらと光っており、明らかに盛り上がっていた。たじろぐナガトに対し、コウはすっかり臨戦態勢を整えていた。コウがゆっくりと片足を上げると、大きな逸物がにゅるりと飛び出て灰色の腹筋にぴたっと張り付いた。押し出された体液が太い糸を引きながらこぼれ落ち、ベッドを濡らす。ナガトは気恥ずかしさに目を反らした。

「まさか覚えてない? じゃあ私が思い出させてあげる。私はね、『出なくなるまでイったら』って言ったんだよ」

口吻をつかまれ、無理矢理顔をコウの方へと向けさせられる。ナガトの眼前では薄いピンク色をした生殖器が挑発している。自分のものほどではないが、シャチ種とイルカ種の体格差を考えれば十分に大きい。かわいらしさの残ったユウキのモノとはまるで違う、大人の生殖器だ。見慣れているとはいえ、改めて目の前に置かれるとつい目を背けてしまう。

「もしかして恥ずかしいの? ほんっと、ナガトってこういうとこウブで可愛いよね。いまさらじゃない?」

「ちょっと、落ち着けよコウ! それにこんな、目の前にこんなモノよこして、もうちょっとお淑やかにさ……」

「私はね、キミと、交尾したいの。それも今すぐに。分かる?」

あまりにもダイレクトな言葉遣いに、もう少し雰囲気ってものがあるだろうと不満の吐息を漏らした。ナガトは性行為があまり得意ではない。むしろちょっと苦手だった。もちろんコウとそういう行為をするのは嫌いではないし、恋人が達するのを見るのは好きだ。ただ、積極的に自分の欲をさらけ出すのが苦手なのだ。コウに言わせればまだ〝青い〟のかもしれない。コウのようにぐいぐい来られると困惑してしまう。恥ずかしがるような年齢でもないことはよく分かっている。これがユウキ相手ならば適当にいなせるのだが、相手がコウとなると勝手が違った。ちらりと視線を戻すと、コウがピンク色の性器をくねらせながら舌舐めずりをしているのが見えた。邪悪ささえも感じられる顔つきに、『ああ、自分はこれから食べられるんだなあ』と思わずにはいられなかった。

「ほら、しゃぶって」

有無を言わさず目の前に迫るペニスに、おそるおそる舌を伸ばす。先端からにじみ出た先走りがしょっぱい。フェラチオもまた苦手だった。鋭い歯で傷つけないように気を遣うのは疲れる。かといってあまり慎重にするとなかなか終わらない。そして何より、他人のモノをほおばっているとき、自分の鼻孔から吐息が漏れるのがとんでもなく恥ずかしいのだ。せめて手を使ってと考えていると、コウの尾びれが再びももを打った。仕方なくナガトは陽根を口に含むと前後に動かす。時折、舌を先端の敏感な部分に這わせ、努力はしているんだとアピールする。

「んっ、はあ。ナガトも腕を上げたね。私のチンポ美味しい?」

美味しいわけないだろと心の中で呟きながら、ナガトは口内を犯すコウのモノを刺激した。こんなもの、美味いわけはない。根元まで咥えたとき、不意を打って喉の奥を肉棒が突く。ナガトは思わず「えぐっ!」っと嘔吐く。上を向いてコウを睨むが、コウは薄い笑みを浮かべて顎をくいとうごかし、行為を続けるように促してくる。自分の方が一回りも大きく、歳も上だというのになぜこんな仕打ちを受けなければならないんだとナガトは憤った。浅ましく男根を加える自分の姿を想像してしまい、顔をしかめる。ただの儀式なんだと自分に言い聞かせ、じんわりと熱くなる下半身から意識をそらす。これはコウに気持ちよくなってもらうためにするんであって、決して自分がしたいからするのではない。ナガトがなんとかプライドを保とうと必死に弁明する一方、コウはというと艶っぽい声を上げはじめた。鼻息も荒い。

「ああっ、ナガトぉ……私の精子、そんなに欲しいの? じゃあ、いっぱいだしてあげる!」

コウの嬌声に、赤くなったのはナガトだった。普段は冷静沈着なコウが恥ずかしげもなく痴態を晒すのはどうにも苦手だ。もう少し上品にしてくれたら……とそんなことを考えつつも、体は勝手に動いていた。口を窄めて頭全体を前後に振り、コウのラストスパートに合わせる。口腔内はすっかりコウの体液でいっぱいになっている。あふれ出た先走りと唾液の混合物が口吻下側の白肌に垂れ、ぐちゅぐちゅと粘った音が部屋にこだまする。

ナガトが来ると思った直後、ナガトの口からペニスが引き抜かれ、火を噴いた。迫り来る熱水にナガトはすんでのところで目を閉じる。熱いゲル状の精液が顔に当たるたびにナガトはびくっと体を震わせた。

「はぁ、はぁ……なかなか良かったよ、ナガト。チンポを咥えるのが上手になったじゃない」

そう言うとコウは下あごに垂れる白濁液をすくい取り、顔の上半分の黒い部分に塗りつける。まるで化粧をしたかのように鼻先から眉間に掛けて白線が描かれた。鼻につく塩素臭にふと猛ってしまいそうになる欲を、理性で押さえつける。この興奮を、もし万が一にでもコウに知られたらどんなことをされるか分かったものではない。自分はあくまでコウの性行為につきあってあげているだけだ。にもかかわらず、ナガトは再度ねじ込まれた肉棒の汚れを、反射的に舐めとっていた。嚥下した精液が喉にこびりつく。これも知らず知らずのうちにナガトが仕込まれたテクニックだった。

掃除に満足したコウが柔らかくなったモノを取り出し、ナガトの腹の辺りに座り直す。そのまま足の付け根にあるスリットに手を伸ばしてくる。スリットの周囲を愛撫されと、血液が下腹部へと集中してしまう。ふくれたナガトのモノで股間はすっかり隆起していた。コウの指が先走りに濡れそぼった溝へと侵入すると、その指をはじき飛ばすようにナガトの巨大なモノが飛び出てきた。

「相変わらず凄いね。フェラだけでこんなに興奮するだなんて、まるでユウキみたい」

「ば、馬鹿なこと言うな! 俺は別にフェラで興奮したんじゃない!」

すぐに思わず声を荒げてしまったことに後悔した。これではまるで中等生と同レベルであることを認めたようなものではないか。とはいえ、フェラチオで気持ちよくなったのはコウであって、自分ではないのは事実だ。きちんとしたセックスで興奮するならまだしも、他人のモノを咥えて興奮するなど変態的ではないかとナガトは不機嫌になる。

「じゃあ、なんでこんなになってるの?」

「……そ、そりゃあ、セックスになれば興奮するのは普通だろうが」

「つまり、キミは私に興奮してるってこと?」

「いや、まあ……」

顔を歪めて応えに窮する。固まるナガトを見てコウはにやりとして言葉を続ける。

「それともなに、君は単に私の穴と棒に興奮してるだけ? ひっどいなあ……」

「そ、そんなわけあるかっ! お前には感謝してるし、大切だとおも、思ってる」

合格と言わんばかりに笑顔を浮かべたコウが口づけをしてくる。ナガトはしぶしぶ口を開いてそれに応じた。どうせなら主導権を取り返してやろうと積極的に舌を動かしてコウの口を嬲る。口内は暖かく、ぬるぬるしていた。そうしているうちに二人の声は徐々に激しくなった。

「ねえ、そろそろいいかな。私のこんなになってるし」

浮ついた表情でコウが腰をもぞもぞと動かし、ナガトの手を自らの股間へと導く。コウのペニスはすっかり堅さを取り戻していた。ペニスが収まるスリットの後ろ側には、窄まりがあった。本来は堅くすぼまっているはずのその穴は、行為を前に柔らかくほぐれており、ねばねばした体液に濡れている。コウは元々濡れやすい体質だが、いつも以上に量が多い。これならローションは全く不要だろう。原生人類の男性は女性に比べると濡れにくく、行為を行うのも大変だったと文献で見たことがある。きっと毎回大量のローションを準備するのは大変だっただろう。大量の分泌液にまみれたコウの穴は、ナガトの太い指を三本も飲み込む。コウの体内はいつも通り熱く、柔らかかった。それでいて時折強く締め付けられるのはよく鍛えられているからだろう。ナガトが指を曲げて前立腺を刺激するとコウが体を震わせた。

指を引き抜くとすぐにコウがナガトの巨大なペニスを自らあてがって腰を落としはじめた。ナガトが無理はするなと言う隙もなく、子供の腕ほどもある生殖器がすべて飲み込まれてしまう。くぐもった声を上げるコウの鍛えられた腹筋を見ると、ほんのりと盛り上がるようにも見えた。淫らに悶える腸壁がナガトのペニスに絡みつき、ナガトの欲を求めて締め上げる。ナガトは文字通り搾り取られていた。下腹部にグッと力を入れておかないとすぐにでも達してしまいそうだった。

「ううっ……さすがにっ、いきなりはっ、キツいね……でも、すっごく……良いっ! ナガトのチンポ、最高だよ!」

腰を上下に動かすコウの男性器からは、体液が糸を引いてしたたり落ち、ナガトの白い腹に粘液だまりを作っていた。引き抜くときには腸壁全体が名残惜しそうにペニスにねっとりとまとわりつく。最後の肛門を抜けるときの締め付けは特に強烈で、ナガトは耐えるのに必死だった。逆に差し込むときには肉の壁は異物の侵入を拒むかのようにすぼまり、ナガトのペニスはずぶずぶと腸粘膜をかき分けて進む事になる。それだけならまだしもコウは時折体をねじって変化を付けてくる。休む暇もない快感の連続に、ナガトは一分と待たずに耐えきれなくなる。コウがナガトに深く座り込んだ瞬間、熱い塊が尿道を駆け上がっていった。ついさっきまではしたない声を上げて快感を貪っていたコウの動きが止まり、ナガトに冷たい視線を向ける。

「もしかして、もう、出した……? もう私の腹に射精したの? 私、まだイってないんだけど!?」

あまりの迫力に、ナガトは身動き一つ出来なかった。もしこれでギブアップなどしたらそれこそ殺される。拒否権はなかった。コウはピストン運動を再開し、より逆に激しさを増していた。結合部から混じり合った二人の体液がじゅぶじゅぶと吹き出す。ナガトは絶頂の直後のまだ敏感な粘膜に強い刺激を与えられ、悲鳴を上げた。快感を通り越して拷問に近い。勘弁してくれと懇願しても、受け入れられることなどないだろう。『出なくなるまでイったら』という言葉がナガトの脳裏に浮かんだ。

敵は議長?

翌日ナガトはユウキの罵声にたたき起こされる。コウに搾り取られたあげく、いつの間にか寝てしまったらしい。いや、気絶したと言った方が正しいかもしれないなと下腹部をさする。鈍痛もそうだが、腹の皮膚が張った感触がして不快だった。触るとぱらぱらと白い粉が落ちた。皮膚が白いので目立たないが、大量の精液が乾いて張り付いているようだ。青いウォーターベッドも体液の痕跡がいたるところに残っている。部屋の入り口には、Tシャツ、ハーフパンツの上にエプロンを着けたユウキが腕を組み、頬を膨らませていた。

「なんだよ、二人だけで楽しみやがってさ! ナガトの嘘つき! セックスしてくれないのに、掃除だけはしろって言うのかよ!」

ユウキが投げた薄汚れたぞうきんが、まだ寝息を立てているコウの後頭部に着地する。ぞうきんは噴気孔を塞ぎ、きゅいーっという奇妙な音がした。続いて飛んできた洗剤入れ、ブラシ、箒、ちり取りが飛んで来て二人の体へぶつかる。

「ユウキ、謝るから物を投げるのは止めてくれ! 別に俺もわざとお前をのけものにしたわけじゃないんだって。昨日は大変だったんだから勘弁してくれよ」

「誤魔化そうたって駄目だよ! コウとか疲れ切って全然起きないじゃん。一体何回ヤったんだよ! 二人だけで気持ちよくなってずるい!」

むすっとした表情を浮かべて、ユウキの尾びれがぺちぺちと床を打つ。面倒だなあと思いつつも立ち上がると、自らの口でユウキの口を塞いだ。強引に舌を差し込み、口内を嬲る。口内は微かに甘かった。

「今夜こそは二人で相手してやるから、今はこれで勘弁してくれ。アイツに色々されたせいでマジで起たないんだよ。気持ちいいどころか痛いからな。一歩間違えたらちぎれるところだったんだぜ? アイツの怖さ、知ってるだろ?」

そう言って起きる気配のないコウへと視線をやる。ユウキは急に小声になって「そんなにヤバいの? ちぎれるってマジで?」と驚いた表情を見せる。

「ホントだよ。俺でもそうなんだから、お前がアイツに本気でヤられたらちぎれた上に、穴が増えるかもしれんな」

「穴が増えるってどういうこと!? あ、もしかしてチンコが入ってる穴に入れられたの? あそこって入れられると痛いんだよなあ……」

その言葉にナガトは唖然とした。

「……お前、そんなとこに入れられたことあるのか」

「友達にね。すっげえ痛かった」

「……そうか。まあ、いい。じゃあ、危険性は分かるだろ?」

ユウキが慎重にコウに恐る恐る近づいて掃除用具を手に取る。雑巾を回収する時など、すっかり腰が引けていてコウはすっかり猛獣扱いだった。ユウキは自身が投げた物をあらかた回収すると、掃除は後でやるからと言って足早に部屋を出て行く。

やれやれとため息をついて、頬を撫で、散々奉仕させられたせいで軽い筋肉痛になっている顎をもみほぐす。ぱらぱらと白い粉が落ちた。顔も昨夜の残滓で汚れていた。

熱いシャワーを全開にし、ボディソープを泡立てて一気に全身を清める。下腹部はまだ痛むが、これでかなりすっきりした。皮膚の発色を良くする効果のあるケアオイルを手に取り、首から上全部にしっかり塗り込む。鏡をのぞき込み、目の横側に伸びたアイパッチがくっきり浮き出ているのを確認して満足げに頷く。今日も一切黄色みがかっていない透き通った純白が、黒い膚に映えている。ナガトはプレスしたてのスーツをユウキから受けとって身につけると、背びれに力を入れた。

朝のドタバタの後、上院議会議長から呼び出しがあった事を秘書のマサヒトから告げられたのだった。用件は『個人的なもの』と言われたらしいが、十中八九、訓練船の件についてだろう。自主的な辞職を求められるかもしれない。ナガトにとって面白くない用件であろう事は容易に想像出来た。もちろん、素直に受け入れるつもりなど毛頭もない。最初からやり合うつもりで普段は気を使わない外見に力を入れたのだ。議長は身体の衰えが目立つ中年だ。まずは見た目から威嚇してやるとナガトは意気込んでいた。

「くれぐれも冷静にね。ナガトはすぐ熱くなるんだから」

スーツを着込み、ネクタイと格闘するナガトを眺めながらコウが言った。昨夜の乱れようが嘘のように取り澄ましている。

「分かってるよ……クソッ!」

何度やってもネクタイの結び目が斜めになってしまい、どうにも決まらない。

「ただ、ぶざまに負けてきたら承知しないからね。訓練船の乗務員には私が圧力を掛けておくから」

「あんな背びれも起たないインポ野郎に負けるはずないだろ。お前にはいつも迷惑かけてすまんな」

コウの噴気孔から、チリチリと〝愉快〟を示すクリック音が聞こえてきた。

「何が面白いんだよ」

「ナガトが謝るだなんて珍しいからね。むしろ謝られた方が心配だよ」

「なんだよ、それ。こっちは本気で言ってんだぞ? ところでお前、コイツの結び方分かるか?」

団子結びになったネクタイをナガトが指差す。

「ネクタイも結べないの?」

「指が太いから結びにくいんだよ!」

コウがわざとらしくため息をついて立ち上がり、ナガトの前に立つ。ネクタイを手に取ると、結んではほどき、輪っかを作っては端を通すことを繰り返す。何度か挑戦し、一言「無理」と発するとソファーに戻っていった。

鏡に映ったナガトの首には、結び目が複雑怪奇に絡み合ったネクタイのようなものが引っかかっていた。近くの壁に寄りかかって二人のやり取りを見ていたユウキが、やれやれと首を振る。

「なにそのネクタイの結び方。ナガトもコウもネクタイ一つまともに結べないの? 大人なのに情けないなあ……。僕からしたらどっちも心配だよ。さ、見せて」

大仰に歩いてくるユウキの姿に、ナガトとコウが同時に破顔する。

「な、なに? 笑わないでよ!」

「ははは、スマン。なに、ユウキも一丁前になったなあと思っただけだ」

「なんだよ、せっかくネクタイ結んであげようと思ったのに!」

一転してふてくされたユウキに謝り、ネクタイを結んでもらう。しゃがんだナガトの首にユウキが腕を回すと、あっという間にネクタイらしい結び目が襟元にできあがった。上手いもんだとナガトは素直に感心した。

「そろそろ時間じゃない? ユウキに心配させないように頑張らないとね」とコウが時計を見て言う。

「ああ、そうだな。ネクタイありがとよ、ユウキ」

立ち上がり、ユウキの頭をぽんぽんと叩く。コイツを護るためにも負けられないとナガトは再度背びれに気合いを入れ、戦いの場へと向かった。

上院議長の居室はセントラルタワーの中層部、上院議会本会議場のすぐ近くに位置していた。『上院議長室』とだけ書かれた無愛想なドアをノックして開く。眼鏡を掛けた細身の男がディスプレイを見ている。不健康なほどのやせ形で、衰えた皮膚は遠くからでもしわが見えるほどだった。背びれが垂れているのは運動不足の証拠だ。背びれの筋肉は陸上生活ではほぼ使うことはない。定期的に泳いで鍛えないとすぐにだらしなく曲がってしまう。おそらく月に一度も泳ぐことなどないのだろう。ここ数十年はドームの外に出たことなどないに違いない。せっかく泳ぎに適した身体を持っているのにもかかわらず、全く生かそうとしない目の前の人間に、ナガトは蔑みの目を向けた。

部屋の中は飾り気が全くなく、あるのは実用性のあるものだけだった。唯一鮮やかなのは来客者用のソファーぐらいだ。最低限の装飾品さえないその部屋は、質素というより無愛想な印象を受ける。豪華な部屋はナガトも好まないが、ここまでストイックにされるとこの議長は生きていて楽しいのだろうかとさえ思ってしまう。壁面に並べられた本棚にはバインダーが種別ごとに色分けされてぎっしりと詰まっていた。まるで資料室のようだ。ナガトが部屋の中に足を踏み入れると、議長が顔を上げた。

「御無沙汰しております、アイデ議長。どうやら私に個人的な用件あるようで」

「ナガト君か。そこへ座りたまえ」

アイデが顎で来客用のソファーを指し示す。ナガトは足取りゆっくりソファーに歩み寄ると、アイデに断ることもなく腰を下ろした。標準サイズを大きく超える脚がテーブルに当たり、テーブルがずれる。背もたれには体を預けず、背筋は伸ばしたまま座る。一方のアイデもたっぷり数分はナガトを待たせたあげく、ようやく立ち上がった。テーブルがずれているのを見つけ、軽く顔をしかめて元の位置に戻す。

「さて、ナガト君。なぜ私が君を呼んだかわかるかね」

「はあ。全くもって検討もつきませんね」

老獪な視線を、ナガトはまっすぐ見返した。アイデのアイパッチは黄色みがかっていた。

「ディナーへご招待でもいただけるのでしょうか? 議長の私設農場で飼育されたウシは大層美味しいらしいと評判ですからね。投資額も結構なものになっているのだとか。羨ましいものです」

挑戦的な軽口をたたくナガトに、アイデはふんと噴気孔を鳴らす。さすがにこの程度では激昂しないかとナガトは舌打ちした。アイデ議長とナガトは上院議会で何度も衝突している犬猿の仲だ。ナガトが有力者の顔色ばかりうかがう八方美人なアイデ議長を嫌うのと同じく、なにかと型破りな言動をすることが多いナガトのことをアイデが疎ましく思っているであろうことは十分承知していた。さらに、アイデはナガトの言動だけでなく、ナガトの生まれもまた気にくわないようだった。ナガトは従子であるとはいえ現職知事の第二子だ。キミト知事はアイデの通信局時代の上司にあたった。生意気な新人議員など普段なら簡単に握りつぶせるのに、ナガトに対してはその手が使えない。アイデにとってはそれが苛立ちを増す原因となっているらしい。しかも、ナガトは父キミト知事や兄キミヤス上院議員とは全く別に、シャチ種の若手議員や下院議員――こちらはイルカ種で構成される――と交流が深く、独自のネットワークを形成しているためになおさら手を出しにくい。若年層の有権者に人気があるというのもアイデは気にくわないようだった。

親の七光りだけならまだ我慢できようが、自分の恩師でもあるキミトの意向に逆らうナガトのことがどうにも気に障るのだろう。日頃の鬱憤を晴すかのようにねちねちとアイデがナガトを責めてくる。

「君は自分がしたことの重大性を認識しているのかね? 我々は立法を通じてこのドームを導き、ドームに暮らすすべての民衆に奉仕する役割を負わされているのだよ。それをだね、熱源管理局の貴重な船を私的に接収したばかりか、それをとがめる警備局職員を血縁者の名を出して脅迫し、正常な業務を妨害するなど狂気の沙汰だよ。一体君は自分の行動の結果に対してどのように責任をとるつもりかね」

そういうとアイデはとんとんとテーブルを指で叩いた。不思議なことに、アイデはあまり楽しそうではなかった。むしろ苛立っているようだ。ナガトの責任を追及出来る機会など、もっと喜んでも良さそうなのにそんな様子はない。ここでナガトが責任を取って上院議員を辞めるとでも言えば、アイデは小躍りでもしだすかもしれないが、ナガトはアイデを喜ばせるつもりもなければ、貧相な小男のダンスに興味など毛頭なかった。

「議長、その件については事後報告となってしまったことをお詫び申し上げます。しかしながら議長は少し勘違いをされているようだ。まず、私が乗船した熱源管理局所属の掘削船に関してですが、私が私的に接収した物ではございません。あの船は大気維持管理局が熱源管理局から貸与されていたものです。議長ももちろんご存じだと思いますが、大気維持管理局はメンテナンス用の船を所有しておりません。ドーム外に設置された機器をメンテナンスする際には熱源管理局に依頼して作業を行っています。それがですね、近年私が推進させていただいているシャチ種とイルカ種の負担平等化の流れに呼応してくれたのか、熱源管理局から大気維持管理局に船を貸与するという形で作業を行う事になりまして、私はその監督状況視察のために例の船に乗っていたのです。それはあくまで偶然です。たまたま視察中に訓練船の件が耳に入ったのですよ」

ナガトが「偶然」を強調すると、アイデの苛立ちが顔に表れてきた。ぴくぴくと震えるアイデのまぶたに、ナガトは笑いを堪えた。

「ほら、なにしろ大気維持管理局はそのほとんど全てがイルカ種です。実際には熱源管理局のシャチ種職員がほぼ全ての業務を行うにしろ、ドーム外作業を自らの負担で行うという意思を見せてくれたのですから、イルカ種の皆さんのドーム外作業への協力を推進する私としては視察しないわけにはいかない事情がございましてね」

そう言うナガトに対し、アイデは声を荒げた。

「何だと! じゃあ、一体あの船は誰が操船したというんだね! 記録によると乗船したのはたったの二名、しかも一人はイルカ種だというではないか!」

ナガトはにやりと口角を上げた。

「操船は大気維持管理局メンテナンス技術開発室特殊作業対応課のキカン=ヤツシマ=コウ課長が行っています。熱交換器のメンテナンスはかなりの部分が自動化されており、熱源管理局と大気維持管理局の作業共通化も相当進んでおります。機材さえあれば単独でも十分対応可能です。実際、コウ課長は単独でも業務を……」

「だから彼はイルカ種だろうが!」

拳がテーブルを叩く。アイデがお茶の一杯も出さないせいでこぼれる心配はなかった。

「まさか、イルカ種に船の監督者になる資格があるなどと言い出すのではないだろうな? 船長になる資格があるのはシャチ種だけだ。イルカ種が船長をしたとなればそれは違法になる。それはいつも君自身がさんざん言っていることだろう?」

アイデは、ナガトがイルカ種に単独でのドーム外作業を行えるように、つまり船長になれる権限を与えようと主張していることを指摘したいようだった。

「ということは、だ。そのときは君自身が操船していたことを意味する。そうなれば君の主張する視察で同乗しただけというくだらない言い訳は全く通じない。それとも何か、君は自分の主義主張を押し通したいがために法を犯したとでも言うのかね?」

「私は操船しておりません。操船していたのはコウ課長です」

「話にならん! 君は……君という奴は上院議員にふさわしくないっ!」

口角泡を飛ばすアイデに、ナガトは勉強不足だなと呟いた。

「議長、別に違法行為をしているわけではございません。彼、ヤツシマ=コウ課長は準上級市民です」

アイデがそれがどうしたと言わんばかりにフンと鼻で笑った。上級市民とはシャチ種を指す言葉であり、上院議員に対する選挙権を有しているほか、〝船長〟になれる権利を持っていたり、一般市民――イルカ種のほとんど――に対する現行犯逮捕権を持っているなど優遇されている。ドーム外で船を操るためにはかならず責任者として船長を配置する必要があった。訓練船についてはナガトが少し前に通した法案によって、シャチ種の監督者――法律上の船長――がいれば特別に操船して良いことになってはいるが、あくまで訓練の時に限られ、その場合船長は陸にいることになる。対して準上級市民は一般市民を統率するイルカ種指導者層を指す。下院の被選挙権を持つのはこの階級だ。上級市民との扱いにはかなりの差があるが、ここで重要なのは〝一般市民ではない〟という一点だった。

「当然ご存じだとは思いますが議長、船舶操縦者法第六条第三項のことはご存じですね? 船長の資格を制限している部分です。ここには『船長になる資格は上級市民に限る』ではなく、『一般市民を除く』となっているのです。つまり、一般市民ではないコウ課長には船長になれる権限があることになります。出航後に訓練船が危険な状態にあることを知って、現場責任者となったコウ船長に対してドームの資産を保護するための対応を要請したのですよ。コウ船長は実に適切な対処を行ってくれました。本件、事後報告となってしまったことを再度お詫び申し上げます。ただ、結果として貴重なドーム資産の保護に成功したということは主張したいと思いますが」

一気にまくし立てた後、最後に「上院議員としては当然のことをしたまでですが」と付け加えた。しかめっ面をして聞いていたアイデの後頭部からかすかにクリック音がする。自慢の美人秘書に、頭部端末で船舶操縦者法の該当部分がその通りの文面になっているか確かめさせているのだろう。この分野については日々イルカ種の権利拡大に向けて活動をしているナガトの方に分がある。昨夜、ナガトとコウが致している間に、マサヒトが徹夜で最高の仕事をしてくれたのだった。

たっぷり数分はたった後、アイデが顔を上げた。

「どうやらそのようだな……。確かに、接収については私の勘違いがあったようだ」

骨張った拳を振るわせながらそう言った後、「ただ」と睨み付けてくる。

「ただ、だ。警備局に対する脅迫はどう釈明するのかね? 聞いたところではキミヤス上院議員の名を無断で出して脅迫したと言うではないか。わざわざそのような行為にでたのは君が違法行為を認識していたからではないのかな?」

「ええ、その件については申し訳ないことをしたと思っております」

「……非を認めると?」

「兄の名を出したのは少々やり過ぎたかと反省しております。いくら上院議員はドームの資産保全を最優先に行動すべしという上院議員法に則って行動をしたとはいえ、いささか強引になってしまいました」

頭を垂れるナガトに、アイデはふんと鼻息を荒くする。

「しっかりと反省したまえ。聞いたところによると、君は以前にも同じような騒ぎを起こしているようではないか。以前から私は常々思っていたことなのだが、君はどうも上院議員としての意識が足りないようだ。イルカどもに熱を上げるのもほどほどにしてもらわないと、いい加減迷惑なのだよ。君がやっている伝統と秩序を破壊する行為については党執行部でも問題になっているのだが、この意味は分かるかね?」

反抗的なナガトの振る舞いに業を煮やしたのか、アイデが伝家の宝刀を抜いた。アイデは実質独裁政党である遠和党の執行役員も担っており、その気になれば党としての処分を加えることが出来る。アイデが反応を観察するようにナガトの顔を覗き込み、口角を上げた。ミイラが笑ったかのようで非常に不快だ。

「そうですか。問題にするというのであれば仕方ないですね」

ナガトは腕を組んでそう答える。アイデが顔をしかめ、貧相な腕でテーブルを殴りつける。

「その態度が問題だと言っておるんだ! その気になれば君を除名処分にもできるんだぞ! 分かっているのかね!」

「ええ、十分に承知していますよ。党を除名するというならそれで結構。好きにしてください」

「貴様っ……自分が知事の子供だから思い上がっているのか!」

アイデが息を詰まらせる。噴気孔から発せられたキーっという鋭い超音波が聞こえてくる。このままからかい続ければそのうち憤死するのではないだろうかとナガトはほくそ笑んだ。

「いいえ、別に思い上がっているワケではないですよ。党を除名処分にするというならそれで結構です。ただ、籍を離れるだけで別に議員資格を失うのではないですから。あなたにとっては不幸なことに議員資格を止める権限は議長にはない。私は別に遠和党にこだわりはありませんからね。ただ、兄に協力するために所属しているだけですし、元々あなた方幹部連中から嫌われているのは十分承知しています」

淡々とそう言ったものの、遠和党が一党支配する上院議会で党員資格を失えば法案を通すのは絶望的に難しくなる。譲歩に譲歩を重ねたとは言え、イルカ種に対してドーム外作業訓練を行うという法案が通せたのもナガトが遠和党員だったからだ。さすがに党を離れてしまえばナガトに協力してくれる仲間の議員も反対に回らざるを得ない。ただ、今回の件で除名されるようならそれまでだ。今後は別のやり方で活動を続けるまでだ。そんなナガトの決心を知ってか知らずか、アイデは声を荒げる。

「だまれ! 恩師らずのボンクラがっ! お前など本来であればっ……!」

怒りにまかせて振り回した腕が、申し訳程度に置かれた花瓶をはね飛ばす。花瓶はガシャンと音を立てて棚へぶつかり、几帳面に並べられたバインダーが水に濡れた。ナガトはヒートアップするアイデの姿をおかしみつつも、どこか違和感を覚えた。この怒りようは尋常ではない。主流派に疎まれているナガトが、アイデ議長とこのように言い合いをすることはよくある。日常的と言っても良い。本当に我慢の限界に達したというのであればさっさと除名処分にすれば良いはずだ。そうすれば先のナガトの態度を単なる強がりだと溜飲を下げることが出来るだろうに。にもかかわらずこれほど過剰な反応を見せるのは腑に落ちない気がした。それに、考えてみればこれが『個人的な用件』というのもおかしな話しだ。議長サイドでもなにか裏があるのかもしれない。怒りに震えるアイデが立ち上がり、自分のデスクに積まれた書類の束から一枚の紙を取り出し、ナガトに放り投げる。

「一つ言っておくが、私はこのような処分には同意していない。議員辞職勧告を提起しても良いくらいだ。貴様も誰が味方で、誰が敵かしっかり見定めておくのだな!」

床に落ちた紙を拾うと、さっさと出て行けという苛ついた声が聞こえてくる。言われなくても出て行ってやるよと扉へと向かった。

――ゴウサカ=ナガト殿 党員規定そぐわない行為を行ったと認め、貴殿を訓告に処す。

扉を閉じたあと、渡された紙を見てナガトはアイデの怒りの原因を理解した。訓告は処分の中で最も軽いものだ。アイデはさも自分の取りなし次第で処分内容を左右できるかのように言ってはいたが、その実、すでに執行部の中で処分内容は決まっていたのだろう。それが納得できず、『個人的な用件』と言ってナガトを責めようとしたのだ。もしナガトがアイデに頭を下げていれば、処分を軽くしたのは自分のおかげだと言って恩を売りつけるつもりだったのかもしれない。全く情けない話しだと呆れつつも、一体なぜという疑問も浮かぶ。アイデの口からは出なかったが、訓練船座礁の黒幕として通信局の名を出して噂を流したことは党のトップでもある知事キミトの耳にも入ってはいるだろう。キミトをはじめ、党執行部には通信局のOBがわんさか居る。アイデも通信局出身だ。問題にすれば訓告などより重い処分、例えば登院禁止や党員資格停止などにも出来たはずだ。それが口頭注意に毛が生えたような軽い処分で済んだと言うことは、誰かがナガトをよっぽど擁護してくれたに違いなかった。

議長との対決を終えた帰り道、高層階へと向かうエレベータの近くで、よく見知った後ろ姿を見つけた。背びれの付け根にある燃えるように揺らぐ灰色のサドルパッチは、間違いなく兄に違いない。ナガトが声を掛けると、キミヤスがゆっくりと振り返り、久しぶりだなと応じた。ナガトに比べると細身ではあるが、兄弟なだけあって顔の作りはよく似ている。にもかかわらず、自分よりも兄の方がずっと柔和な印象があると良く言われるのは、やはり内面の違いだろうとナガトは思っていた。

「どうした? なにかついてるか?」

顔をじっと見つめる様子を不思議に思ったのか、キミヤスが首をかしげる。

「眼鏡、変えたのかなと思ってさ。なんかこう、前よりも政治家っぽいというか」

「それはどういう意味だ? あんまり良い意味には聞こえんが」

そう言いながらキミヤスが笑い声をあげる。これまた政治家らしい人を安心させる類いの優しい笑い方だった。ナガトも政治家になってよく分かったのだが、票を得るにはまず他人の心を開かせないといけない。親密になる第一歩は安心感をもってもらうことだ。その点、キミヤスは天性の才能を持っているのかもしれない。

「いや、俺も兄貴を見習わないとなと思ってさ。俺ってほら、怖がられることが多いし、眼鏡でも掛ければ印象変わるかなあ」

「ははは、お前は子供の頃からけんかっ早かったからなあ。それが顔にも出ているんだろうさ。むしろサングラスでも掛けた方が似合うんじゃないか。それはそうと、怪我をしたと聞いたが、大丈夫か? ちょっと見せてみろ。良い薬があるんだ」

キミヤスが鞄からチューブを取り出してナガトのワイシャツに手を伸ばす。まるで小さな子を持つ親が、怪我をした我が子を心配するかのようだ。相変わらずだなあとナガトは手首を掴んで動きを止める。面倒見が良いのはいいが、未だに自分のことを子供扱いしようとする兄には驚かされることが多々あった。武闘派で通っているというのに、こんな姿を同僚にでも見られたら示しがつかない。膝をついて傷の様子を見ようとするキミヤスを慌てて立ち上がらせた。

「止めてくれよ、恥ずかしい」

「そうか……ちゃんと医者には診せたんだな?」

何故かがっかりと肩を落とすキミヤスに、ナガトはハイハイとおざなりな応えを返す。素早く周囲を見渡し、誰も居ないことを確認した。

「それはそうと兄貴、今回のことでは力になってくれて有り難う。助かったよ」

「気にするな、俺はいつでもお前の味方だからな。困ったらいつでも言いに来るんだぞ」

立ち上がったキミヤスが、ナガトの肩に手を掛ける。

「まあ、次にやるときはまず俺に相談して欲しいとは思うがな。何度も言ってるが、お前は考えなしに突っ走る傾向がある。周囲は敵だらけなんだ。十分に注意しろよ」

兄の言葉に、ナガトは分かったよと苦笑いを浮かべる。同じような言葉を今朝コウにも言われたのだった。

「すまん、ナガト。話したいことは色々あるんだが、あいにく次が入ってるんだ。また暇になったらホームパーティーでもやろうな」

「兄貴も働き過ぎには注意しろよ。そんなに身体強くないんだし」

「お前が強すぎるんだよ。俺はいたって普通だ。っと、まーた呼び出しだ……。じゃあまた今度な」

キミヤスはそう言うと何かがぎっしりと詰まった見るからに重そうな鞄を持上げ、足早に廊下を走っていく。時折よろめくその後ろ姿は頼りがいがあるとは言えなかったが、持っている権力はナガトの想像以上らしい。

議長との対決から一週間後、貴重な休暇はナガトの悲鳴とともに始まった。胸元に何かがぶつかってきたかと思うと、そのままもぞもぞ布団の中へと侵入してくる。何者かの腕が尾っぽの付け根へ侵入し、下着ごとズボンを脱がされそうになった。ナガトはその何者かの腰を両手でがっしりと掴むと、横のベッドへと向かって放り投げる。

「ぐえっ」

侵入者の鳴き声が聞こえた。

――なんだ、ユウキか。

ズボンを上げて再度寝床に着く。ここ数日は訓練船の後処理で食事をする暇も無いほど忙しかった。朝の〝家族サービス〟はコウに任せようとナガトは心に決めていた。横のベッドからはドタバタと格闘する音が聞こえるが、気にせずにまぶたを閉じた。

「ぢ、ぢぬ゙……だずげ……」

引き続きまどろみを楽しんでいたナガトだったが、大蛇に締め上げられた獲物が上げる断末魔に目を開ける。飛び起きて横を見ると、ユウキが首を締め上げられていた。ナガトも人のことは言えないが、コウは非常に寝起きが悪い。ナガトが止めに入ろうとしたそのとき、ユウキの噴気孔からぷしゅうと空気が抜ける。コウはそれに満足したのか、力が抜けたユウキの身体をベッドから容赦なく突き落とすと、すぐに寝息を立て始めた。ナガトは急いで脱力したユウキのそばへと駆け寄り、息があることを確認してほっとする。全裸で横たわる少年の股間を見ると、スリットからちょこんと飛び出た性器から黄色い液体を垂れ流していた。

――なぜコイツは勃起してるんだ?

そういえば、落とされる直前はとても気持ちが良いと聞いたことがある。まだ自分の半分ほどしか生きていない少年が、特殊な性癖に目覚めてしまったのではないかと少し心配になった。

結局三人が目を覚ましたのは正午の少し前だった。コウはまだ寝足りないと不満顔だったが、ユウキは至極ご機嫌だった。慣れた手つきで失禁の後片付けをすると、昼食を作り始める。気になったナガトは、いつもユウキとあんな事してるのかとこっそり聞いてみたが、コウはなにも覚えていなかった。

サンドイッチとゆで卵で昼食を済ませた後、久しぶりに三人で動植物園へ行くことになった。最初はナガトもコウも外出を渋っていたのだが、ユウキが二人を押し切ったのだ。ナガトは単純に疲れていたからだが、コウが家でゆっくりしようと言った理由はまた別にあった。どうもイルカ種の一派が不穏な動きをしているというのだ。シャチ種に対してだけではなくコウ達準上級市民に対する反感もここ最近高まっているらしい。

とはいえ、具体的になにか動きがあるというわけではないし、ユウキが数日前から今日の休みを楽しみにしていたということもあって、結局出掛けることになった。コウの言うことも気にはなったが、ドーム辺縁部に位置し治安が良いとはいえない工業区画や、一部スラム化している商業区画ならまだしも、動植物園のある農業区画は安全だ。それに、学校が休みの日も友達と遊びに行くのを我慢して家事をしてくれるユウキを労う意味でも、動植物園に連れて行ってやりたかった。

動植物園で学ぼう!

ナガト達が住む行政区画から動植物園の最寄り駅からまでは、リニアレールカーで三十分程度かかる。巨大なセントラルタワーを抜けると、シャチ種とイルカ種準上級市民が住む居住区画が見えてくる。富裕層の住む小さな庭を持つ一軒家に始まった居住区画は、やがて中間層が住む集合住宅へと移り変わり、農業区画との境界付近になると小汚いアパート群になる。ナガトはタイルがはげ落ちたアパートの壁面を見て、熱源管理局の平職員時代に住んでいた風呂、トイレ共同のぼろ屋を思い出していた。配管が痛んでいるせいか、何度となく水漏れに悩まされたのも、夜中に騒いで隣人に怒鳴り込まれたのも今では良い思い出だ。ぼろアパート地帯を抜けると、リニアレールカーは巨大な隔壁にあいたトンネルへと入る。ギョクツドームは万が一浸水が起こった際にも一気に水没しないように隔壁で細かく区切られている。その隔壁はドーム天井と同じカーボンナノチューブとセラミックの複合素材で出来ており、万が一浸水してもその圧力に耐えられる十分な厚さを持っていた。浸水時にはこのトンネルはすぐさま閉鎖され、他の区画を浸水から守ることになる。

トンネルを抜けると強い光に目がくらむ。目が慣れてくると、広大な畑が広がっているのが見えた。天井には発光素子がびっしりと並べられ、露地栽培作物に光エネルギーを供給していた。生来の方法で育てられた作物は生産性は低いが、味や食感は段違いに良い。庶民はほとんど口に出来ない高級品だった。畑のさらに向こう側には草原が広がり、ウシが放牧されている。放牧牛は一頭で一般庶民の丸一年分の年収にも匹敵する最高級品だ。イルカ種はおろか、ナガトのような木っ端の議員でも縁の無い贅沢品だった。普通の住民はせいぜい養殖魚で我慢するしかない。余裕が無いだのと言っておきながら、自分達はこんな贅沢をしているのでは不満が溜まるのも当然だ。

目的の駅は農業区画のほぼ真ん中に位置している。車両を降りると、農業区画独特の、堆肥の臭いが混じった濃密な大気に包まれる。方々から「くさい」という声が聞こえて来た。ナガトとコウがツンとくる刺激臭に顔をしかめる一方で、ユウキは生き生きして深呼吸をしていた。農業区画出身のユウキにとってこの臭気は、悪臭ではなく馴染みの匂いなのだろう。ナガトも何度か視察で訪れたことはあるが、この〝匂い〟は苦手だった。

小さな子供が周囲を走り回るなか、整然と並ぶ水耕栽培施設を横に見ながらのんびりと進んだ。十五分ほど歩くと、大きな丘の上に木々が集まっているのが見えてきた。このドーム唯一の動植物園だ。ナガト達は入り口でチケットを購入し、ゲートをくぐる。動植物園とは言ってもそのほとんどは森林や草原が広がる公園になっており、〝動植物園〟と言えるのは森外れにある学習館くらいだ。それでも普段狭い空間に閉じ込められている子供達にとっては、この程度の開放感でも十分興奮するらしい。至る所で走り周り、親達を困らせているのが見えた。その点、ユウキも例外ではないらしく、ゲートをくぐる前から妙にそわそわしているのをナガトは気づいていた。そのくせ走り出さないのは、もう初等科の生徒ではないのだという妙なプライドがあるからだろう。ナガトはその思春期らしい自尊心にいたずらしたくなった。

「どうしたユウキ? そんなに遊びたいなら、あそこ行ってこいよ」

ジャングルジムで遊ぶ初等科の子供達を指さす。

「あいつら子供じゃん」

「何言ってんだ、お前も子供だろ。じゃあ、そうだな……」

周囲を見渡したナガトは、売店でソフトクリームを買っている二人組のイルカ種の少女を見つけた。年齢的に、ユウキの少し上といった程度だろう。中等生にとっては高価なソフトクリームを気軽に買っているところを見るに、イルカ種でも上流階級出身だろうと思えた。ただ、動植物園に見合った動きやすい服装をしている点は好感が持てた。ユウキに目配せをして、ナンパしてこいよと背中をせっつく。

無理無理と言ってナガトの後ろに隠れるユウキを、コウが一瞥し、二人組の少女に視線を向けて目を細める。

「ああいうタイプはなかなかの難敵だね。一見優しそうだし、声も掛けやすそうに見える。けど、中身は良家のお嬢さんだね、多分。ナンパという行為自体をあまり良い物とは捉えないと思うね。ここは一発逆転を狙って、迷子のフリをしてみたらどうかな? 面倒見も良さそうだし、話のきっかけにはなるかもしれないよ?」

妙に説得力のある声色でコウがユウキにアドバイスする。コウはこのような事柄に手慣れている風を装うことが多いが、眉唾だとナガトは思っていた。当のユウキはからかわれているのが気にくわないのだろう、地団駄を踏んでぷいと横を向く。

「二人ともちょっと待ってよ! 大体僕は別にそういうことしにここに来たかったんじゃないのに、もう!」

まるでコントのようなコウとユウキのやり取りに、ナガトは声を上げて笑う。考えてみると、声を上げて笑ったのは何週間ぶりだろうか。むすっとして公園の奥へと進むユウキの向こう側はこんもりとした丘になっており、短く刈られた芝が広がっている。丘の周囲には広葉樹がみっしりと生え、ドームの他の場所では見られない緑の空間を形作っていた。広大な宇宙空間を越え、海の底に住むようになって千年以上経つというのに、やはり緑を見ると落ち着くということがナガトには不思議だった。もしかしたらヒトの遺伝子に深く刻まれているのかもしれない。だとすると、大海に惹かれるのはもう一方の祖先の遺伝子がそう仕向けるのだろうか。

先を行くユウキの後を二人はのんびりとついて行った。ユウキが丘の入り口に達しようとしたそのとき、丘の向こう側から二人の少年が駆けてきた。途中でユウキに気づいたのか、手を振りながら向かってくる。二人は双子らしくぱっと見は見分けがつかない。服も同じで、イヌが書かれたおそろいのタンクトップを着ていた。イヌというのは空想上の生き物で、口を伸ばした大型のネコによく似ている。そういえば、入り口の売店に同じ柄のTシャツが置いてあるのを見た気がする。ユウキがその二人に気づいたらしく、歩みを止めてびくっと背びれを震わせるのが見えた。

「おーい! ユウキくーん!」

双子の大声が、丘全体に響き渡る。身を翻して逃げ出すユウキの表情は強ばっていた。まるで肉食獣に狙われた草食獣のようだ。双子は競い合うように猛スピードでユウキに迫っている。ナガトの目の前でユウキは双子に追いつかれ、勢い余った双子に押し倒されて砂埃をあげた。

「こんなところで出会うだなんて、やっぱり俺達は運命の糸で結ばれてるんだよ!」

「弟よ、それは違うぞ。運命の糸で結ばれているのは僕で、お前はただのおまけだ。その汚らわしい手を放すんだ!」

「あ、ユウキ怪我してる!」

弟と呼ばれた方が目を回しているユウキの頬をぺろりと舐める。その額に浮かんだ三日月型の灰色模様を見てナガトがあっと声を上げた。この双子は確か、ユウキのクラスメイトで、兄の方がルイで弟の方がソウという名前だったはずだ。双子に抱き起こされて体中をまさぐられるユウキを見てコウも思い出したのか、口を開く。

「あ、君達はカズサカさんのところの……」

この双子は数ヶ月前、突然ナガトの家を訪ねてきたのだった。カズサカ家はイルカ種の中では裕福な家系で、準上級市民の資格を持っている。庶民出身であるユウキとは本来なら同じ学校で学ぶ機会はないが、ユウキがナガトとコウに引き取られたことで同じクラスで教育を受けることになったのだ。二人の訪問の理由はご両親にご挨拶をしにとのことだった。二人ともユウキに好意以上のものを抱いているようで、競い合い徐々にエスカレートしてゆくアプローチ合戦にユウキが辟易していたのを思い出す。あまりにもうるさかったため、その日はユウキと双子の三人をまとめて寝室に押し込めたのだが、翌日ユウキは精魂尽き果てたようにぐったりしていた。その後ユウキは行為のたびに同年代は乱暴だから嫌だと言うようになった。その〝乱暴な相手〟の筆頭がこの双子だろう。見る間にユウキは左右を双子に固められ、背びれの付け根を重点的に責められていた。救いを求める泣きそうな瞳がナガトに向けられるが、いきなりコウに腕を引っ張られる。

「私とナガトは丘の向こう側で休んでおくから。くれぐれも人目につくところではヤらないように。ヤるなら物陰でね、じゃっ!」

ユウキの悲鳴に後ろ髪を引かれることもなく、二人は坂道を上っていった。

「ユウキ、大丈夫かなあ」

ブルーの半透膜に覆われた天井を見上げながらナガトが呟く。その横で同じく寝転がるコウは「大丈夫じゃないかもね」と無責任な事を返してきた。ナガトの近くに黄色いゴムボールが転がってきた。ナガトは駆け寄ってくる初等科にも入らない幼児に向けてボールを転がした。幼児はキャッキャと言ってそのボールを追いかけて行く。

「ねえ、ナガト」

「なんだよ」

「あのさ、いつかさ、本物の青空見てみたいね」

「何言ってんだ。この星の空は青くない。真っ赤さ、すべてを焼き尽くす赤」

そう言って横を向くと、ブルーグレーの整った顔が、控えめな笑みを浮かべていた。

「知ってる。でもさ、もしかしたら青空になってるかもしれないよ? 誰も海の上のことは知らないんだし」

「そうは思えないけどな……」

天井に頭を向け、青空の〝切れ目〟に視線を向ける。コウの言うとおり、今地上がどうなっているのかは誰も知らなかった。カンビ星系の恒星は、播種船が到着して百年と経たずに突如として活発化し、大地を焼きはじめたと記録に残っている。播種船に搭載されている人工知性は恒星の活動が今後数千年は沈静化しないと判断し、放たれる強烈な電磁波を避けるために海底への移住を決定したのだった。その人工知性とのリンクは遥か昔に切れ、その判断が正しかったのかどうかは分からない。それでもナガトは、何十光年もの想像を絶する宇宙空間を旅してきた人工知性が判断を誤るとは思えなかった。それに、データアーカイブによると百年ちょっと前に行われた調査では海上の紫外線量は非常に高く、生物が生存できるレベルではなかったらしい。それからたった百年で事態が好転するとは考えにくい。

身も蓋もないことを言うナガトに、コウははあっと息を吐いた。

「まったく、キミは夢がないなあ。例えば私達の子供がさ、こんな狭いドームの中じゃなくって、壁も天井も遮るものなんて何もない広い世界で育つと考えた方が楽しくない?」

「まあ、それはそうだけど……」

話の行く先が見えず、ナガトは困惑していた。

「じゃあ、二人で見に行ってみない?」

驚いて恋人の顔色をうかがうナガトに対し、コウはすぐに「冗談だよ」とかぶりを振った。ナガト達は子供の頃からずっと、地上は灼熱の死の世界だと言い聞かせられているし、データアーカイブの記録もそれが真実であることを示している。有人探査は危険すぎるし、その前段階である無人探査も成果が期待出来ないことから百年ちょっと前を最後に行われていない。唯一実施されたことがあるのは政治犯の地上への〝追放〟だけだった。それは死刑と同義だ。未だかつて地上世界を見て生還したものは一人もいない。ナガトは熱線に膚を焼かれ、ぶすぶすと煙を上げるコウの姿を想像して身を震わせた。長い間ドームに閉じ込められていると、つい外の世界に対してあこがれを持ってしまうのは分かる。しかしそれは単なる空想に過ぎない。中には地上への憧れを危険思想とする連中も居た。彼らから見ると地上への憧れは悪魔崇拝に思えるらしい。イルカ種を束ねる立場であるコウ達準上級市民は、一般のイルカ種からもシャチ種からも恨みを買いやすい立場だった。そのコウが地上を夢見ているだなどと思われたら、これ幸いと有人海上調査などと銘打って事実上の死刑に追い込もうという輩が出てきてもおかしくない。危険極まりない発言だった。

「そんなこと、俺以外に言ってないだろうな?」

「なにそれ。まるで、浮気疑われてるみたいだね」

けらけらと控えめな笑い声を上げるコウを見て、ナガトは一抹の不安を抱いた。つきあいはもう二十年を超えるが、掴みきれないところが多々ある。コウの立場上、ナガトに言えない事もあるのは十分に理解しているし、逆にナガトがコウに隠していることも多い。上院議員という立場上、たとえ家族であっても言えない事はあるのだ。ナガトは隠し事をされるのは別にかまわない。それよりもむしろ、コウが秘密をもつことでコウ自身を傷つけてしまわないか心配だった。コウは強いが、脆い。

「何かあったらすぐ俺に言えよ。俺にだって、好きなヤツを護ることくらいは出来るからさ」

コウは素直に頷いた。茶化されるだろうと思っていたので意外だった。そのままナガトの胸に頭を預けてくる。ピンと張りのあるブルーグレーの膚を撫でながら、ナガトはまぶたを閉じた。

微睡みの時間は、いつものようにユウキの罵声によって破られた。

「二人とも酷いよ! 大変だったんだからね! あいつら嫌って言ってるのに無理矢理触ってくるし、もう少しで貞操を奪われるところだったんだよ!」

今更何を言っているんだろうとナガトは思う。ただ、皮膚についた歯形を見るに、色々と苦労はしたのだろう。

「そうか。そりゃあ大変だったな」

「なにそれ! 謝罪とかないの!?」

「あー、ごめん」

ユウキががっくりと肩を落としてナガトとコウの間に無理矢理入り込む。仏頂面を浮かべるユウキの頬を、コウが撫でた。

「あの子達のこと、嫌いなの?」

「嫌いって訳じゃないけど……苦手。いつも絡んで来てうざいし」

「そう? 私には楽しそうに見えたけどね。本当はまんざらでもないんでしょ?」

ユウキが黙って首を横に振り、わざとらしく肩を落とす。コウが目を細め、ナガトを見つめてくる。ずいぶんと楽しそうだ。ついこの間、何度も求められたときのことを思い出す。外見はクールで誠実そうなのに、中身はかなりどろどろとしているんだよなあとナガトは嘆息する。

「じゃあ、私からカズサカさんに言っておこうか?」

「もうその話は止めよ! そうだ、向こうの学習館へ行こう! せっかく外に来たのに、こんなところで寝転んでたら勿体ないじゃん!」

ユウキががばっと起き上がり、叫ぶ。

「そうだな、そろそろ動くか」

ナガトがそう言って立ち上がると、コウも何食わぬ顔で膝を立てる。驚くほどの引き際の良さもコウの特徴だ。

学習館へと向かう途中、モオという鳴き声が聞こえてきた。ナガトの背丈を超える高さの金属柵の向こう側で、数頭のウシが草を食んでいた。柵は二重になっており、各所に監視カメラが設置されている。内側の柵には電流が流れていることを示す警告板がかかっていた。どれも高価なウシを守るためのものだ。

「いつ見てもマヌケな声してるよね、こいつら」

ユウキが口吻を柵の間に突っ込んで言う。

「ねえコウ、こいつらってこの星生まれなの?」

「いや、ウシは私達と同じ播種船が持ち込んだ地球生まれの生き物だよ。多分、美味しいから連れてきたんじゃないかな」

「ふーん、そうなんだ」

ユウキはウシに興味を失ったようで、学習館へ向かって歩き始める。一方ナガトは、のんびりと食事に励むウシを見て複雑な思いに駆られていた。彼らに罪はないのだが、ウシは富の象徴でもある。ユウキ達イルカ種市民が牛肉を口に出来る機会は、おそらく一生に一度あるかないかだろう。

牧場を過ぎ、針葉樹の林に入って数分歩くとようやく学習館に着く。あまり人気がないのか、ナガト達以外の来館者は二、三組しか見当たらなかった。この学習館には生きた動物が展示されているわけではなく、子供連れには退屈だからだろう。居るのはドームの至る所で繁殖しているネコくらいだ。キメラの子供やユニコーンが見られるのではと期待していたユウキはそのことを知ってがっかりしていたが、中央ホールに飾られた播種船の巨大な模型に気を取り戻したようだった。ちなみにユニコーンは放牧場で展示されているはずだが、ウシと違って商業価値がほとんど無いため数は少ない。

ナガトの横で、ユウキが播種船を見上げていた。模型はかなり大きく、全長五、六メートルはあった。そのなかで目に付くのはやはり、先頭部分にくっついている巨大な氷の塊だ。模型では氷が占める割合は全体の三割程度だったが、地球を出発した時はその九割五分以上が氷塊だったらしい。氷塊は播種船の最後部にある長い筒状の核融合エンジンの燃料になるとともに、船を守る盾の役割も担っている。播種船の大部分は巨大な氷塊と核融合エンジンに占められており、積み荷はその間にあるドーナツ状に繋げられた球体群に収められている。球体質量の多くは放射線から積み荷を護るための重金属で、中身はナノマシンとホログラフィック素子だ。ホログラフィック素子には播種船の頭脳が格納されているほか、地球上の各種生物の遺伝子情報もデータ化されて保存されていた。この播種船に乗ってナガト達の祖先はカンビ星系へとやってきたのだ。

案内板に沿って進むと、播種船が多数のドローンを放出して星系内の惑星を調査している様子が三次元映像で再現されていた。説明によるとドローンや各種機材はカンビ星系にある金属資源を使い、ナノマシンを使って作成されたものらしい。こんなに便利なナノマシンがあればドームの生活もずいぶん楽になるのにとも思ったが、コウによるとナノマシンの動作は非常に遅く、人が使えるようなスケールの道具を作るのには向かないらしい。実際にはナノマシンでマイクロマシンを作り、マイクロマシンでミリマシンを作り……と徐々にスケールを上げながら機材をそろえていったらしい。ドローン一個を作るのに数十年を要したというのだから、播種船はさぞかしのんびりした性格なのだろうとナガトは思った。

播種船が目を付けたのは、青い海で覆われた星だった。ドローンから見た再現映像が展示されている。大海原をドローンが進むと、数少ない陸地の一つが見えてくる。中央には巨大な山脈が鎮座し、平坦な場所はほとんど無かった。陸地には苔類が這い上がっている程度で、動く生物は全く見えない。ドローンが海中に飛び込むと平坦な大陸棚が広がり、豊かな生態系が形成されていた。この映像を見ると、播種船が陸ではなく海をメインに据えて人類を再生しようと判断した理由がよく分かる。コウの補足によると、当時のこの星の空気は人類が呼吸可能な酸素レベルに達しておらず、紫外線が強すぎて地上で生活するのは無理だったらしい。現在の地上はというと、おそらくもっと酷い状況に違いない。

部屋を進むと、大陸棚に建てられた海底ドームがジオラマで再現されていた。ナガト達が今住んでいる大部分が地中に没した海底ドームではなく、お椀をひっくり返して伏せたような半球形をした〝ドーム〟だ。本来はこのような形をしたものを〝ドーム〟と言っていたらしい。ドームの屋根は半透明で、恒星の光をそのまま透過させるようになっている。ジオラマのすぐ横には人工子宮から生まれ出たばかりの二体のマネキンが置かれていた。シャチ種とイルカ種の赤ん坊で、姿形はいまと変わらない。陸上生活に適した人類をベースとしつつも、海生ほ乳類の遺伝子を導入することで海中生活にもある程度なじむように播種船の人工知性が遺伝子を改変したのだ。播種船がなぜ二種類の赤ん坊を生み出したのかについては未だ議論が分かれているところだが、案内板では「人工知性は生物的に優れた指導者としてシャチ種を生み出し、労働者として繁殖力に優れたイルカ種を生み出すことで極限環境における生存性を向上させた」と書かれている。それを読んだユウキは特に疑問を持つことなく受け入れたようだが、ナガトはその解釈に納得していなかった。確かにイルカ種は身体が小さく、海中への適応度合いもシャチ種には劣る。しかし、スペースが限られるドームでは必要なエネルギー量が少なくて済む分、小柄な方が生存には有利なはずだ。大陸棚時代も今も、人類の基本は陸上生活であり海中作業はあくまで補助的なものだ。ただ一つ確実なのは、今のギョクツドームではシャチ種が支配者であり、イルカ種が被支配者であることだけだった。

次の部屋は映画館のようになっており、スクリーンには人類に訪れた危機の様子が派手なCGで再現されていた。空に浮かぶカンビ星系の恒星が突如として明るさを増し、地上を焼きはじめたのだ。陸地に進出した苔類は燃え上がり、湖がみるみるうちに干上がる。その異変は海にもおよび、陸地に近い海面が沸騰し、せっかく播種船が再生した魚類が次々に死んでいく様子が、淡々としたテロップとともに描かれる。大陸棚の底もその影響からは逃れられず、海温の上昇と急激な放射線の増加によってようやく安定してきた海中生活は一気に崩壊していった。ただ、これはずいぶんと誇張された表現で、恒星の活発化は何年も掛けて徐々に進行していったに違いなかった。でなければ人類はあっという間に全滅していただろう。話は進み、惑星軌道上に浮かぶ播種船の人工知性が異変を感知し、人類達を水深百メートルの大陸棚から水深三千メートルの海底平原へと移住するように指示していた。シャチ種のリーダーが人工知性の助けを借りながらイルカ種を導き、深海を開拓する過程が描かれる。六つのドームが完成した辺りで恒星が爆発的に活発化し、軌道上の播種船は焼かれる。大陸棚のドームで最後まで移住の指揮を執っていたリーダーが強烈な放射線に崩れ落ちるシーンを最後に映像は終わった。偏向したストーリーではあったが、出来自体は悪くなかった。ユウキもそれなりに楽しめたようだ。

三人が学習館の外に出たとき、すでに夕刻にさしかかっていた。それに合わせて野外の〝天井〟もオレンジ色の照明に変わっている。柵の中に居たウシもいつの間にか一匹も見えなくなっていた。防犯のために夜間は屋内に移すようになっているのだろう。入り口に戻ると、施設の大半が営業時間を終えたというのにまだたくさんの人で賑わっていた。学習館の閑散とした様子とは大違いだ。ナガトがふとユウキに目をやると、しきりに周囲をきょろきょろ見回している。

「例の双子、探してるのか?」

ナガトが肩に手を回してそう言うと、ユウキはぶるっと身体を震わせた。

「あいつらがもう帰ったか確かめてるんだよ! ナガト達はあいつらがどれだけ恐ろしいか分かってないんだよ。一晩とか……無理だ……」

そう言うとユウキは股間を手で覆い、すぐ横を歩いていたコウの後ろに隠れる。コウがナガトの方を見て肩をすくめた。怯えた演技を続けるユウキを従えてゲートをくぐると、駅へと向かう道のど真ん中で人だかりが出来ているのが遠くに見えた。

「なんだな、アレ。祭りでもやってんのか?」

ナガトの問いに、コウが首を傾げる。よく見ると、その集団の大半はイルカ種のようだ。何を言っているのかはよく聞き取れないが、その中の一人が腕を振り上げて何かをしきりに叫んでいた。動植物園からの帰り客に対して何かを訴えているようだ。帰り客の多くは厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだとばかりに大きく距離をとって迂回しているが、足を止めて演説に聴き入っている者もいる。

「二人はちょっと待ってて。様子を見てくる」

そう言うとコウは、制止する間もなく集団へと小走りに向かっていった。呼び止めようか一瞬迷ったが、イルカ種の集団に対してはコウの方が上手く対応出来るだろう。ユウキはと言うと、前屈みになってイルカ種の集まりに好奇の目を向けていた。すっかり演技のことは忘れてしまったようだ。ナガトはコウから目を離さないように注意しながら、休憩用の小さな小屋に身を潜めた。コウは演説者とその取り巻きに目を付けられないよう、巧妙に帰り客の後ろに隠れ、演説を聴いているようだった。数分後、戻ってきたコウの表情は曇っていた。

「うーん、ちょっと聞いただけだから断言は出来ないけど、彼ら政府に対する不満を訴えているみたいだね」

その言葉を聞いて、ナガトは顔を険しくする。

「奴らは反政府活動家ってことか?」

「それに近いかもね」

その言葉を聞いてナガトは拳を握る。決して今の政体は理想的なものではない。変えるべきところは山のようにある。だが、反乱となると話は別だった。反乱など起こせば待つのは滅亡しかない。反乱の結果、犠牲になった者をこの目で見たのだ。万が一、そのようなことを企む連中が居れば全力で阻止してやる。立ち上がったナガトの腕をコウが掴む。

「早まらないでよ、ナガト。反政府組織っていうほど過激な連中には見えなかったから。要約するとシャチ種とイルカ種の準上級市民に文句を言っているだけだったよ。別に扇動するつもりはなさそうだったから安心して」

「そ、そうか」

深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。暴力に訴えずに活動するのであれば、ナガトはむしろ歓迎したいくらいだ。ナガト自身、イルカ種のために力を尽くしているつもりだが、当のイルカ種に現状を変えようという強い意志がないと実現は難しい。ナガトが接したことのあるイルカ種の多くは準上級市民であり、多数派の一般市民がはたしてどの程度賛同してくれているのかは未知数だった。もしかしたらこれは彼ら一般市民の考えを知る良いチャンスかもしれない。

「コウ、奴らが何者で、何を訴えてるのかもう少し詳しく教えてくれ」

「うーん、私も今さっき見ただけだから何者なのかは分からないよ。ただ、もし昔から組織だって政治活動をしていたら必ず私の耳に入っているはずだから、最近出来たグループだってことは間違いない。彼ら自身は自分達のことを水耕栽培室の労働者で、イルカ種労働者の生活と権利を守るために立ち上がったとは言ってたけど……。私の印象としては、どうも後ろに誰かが居るような気配がするね」

「その根拠は?」

ナガトの問いに、一呼吸置いてコウが応える。

「彼らの訴えてる内容が、ちょっとね。まず彼らは、自分達の生活が苦しい原因は準上級市民の浪費にあると言っている。一部のシャチ種政治家と準上級市民が結託して汚職を働いているからだと。それを変えるために自分達が持っている下院議員選挙権を使おうって主張している。端々にシャチ種は悪くない、シャチ種の一部とそれに結託した準上級市民こそが諸悪の根源だってさ。反政府というよりむしろ、現政権を擁護しているようだった」

腕を組んだナガトがうーんと唸った。生活圏が重ならない事もあり、イルカ種庶民がシャチ種と交流を持つことはほとんどない。イルカ種の庶民にとって、目に見える権力の象徴はシャチ種ではなく同じイルカ種の準上級市民だ。当然、不満も準上級市民に向きやすい。シャチ種が直接イルカ種を従えるのではなく、間に準上級市民というクッションを挟むことで、イルカ種同士で争うような形になっているのだ。その点では、準上級市民に不満を覚えるのは納得できる。ただ、そうであってもシャチ種を擁護する方向には普通ならない。わざわざ擁護すると言うことは、知事派が裏で糸を引いていると考えるのが妥当だ。

「なるほど、不満のはけ口に準上級市民を使おうって魂胆か……汚いことをするな!」

拳を打ち付けられた切り株がドンと低い音を立てた。溜まっている不満を準上級市民に向け、発散させようとでも思っているのだろう。

「もしくはイルカ種評議会指導部の失脚を狙っているのかだね。ま、そうだとしたらずいぶん遠回りな気もするけど」

自らの進退に関わることにもかかわらず、コウが他人事のように言う。イルカ種もドームの市民である以上、そのトップは知事、つまりシャチ種だ。ただ、シャチ種が直接支配しようとするとイルカ種庶民の反発は当然強くなる。そこで、イルカ種の一部を準上級市民とし、彼らにイルカ種を統治させることで間接的に支配しているのだ。ギョクツドームのほぼすべての住民は直接または間接的に政府機関に雇われる形で仕事をし、給料を得ている。雇い主である部局はシャチ種担当とイルカ種担当でくっきり分けられており、例えばナガトの出身である熱源管理局や警備局、通信局の職員はほとんどがシャチ種で、局長もシャチ種だ。逆にコウの属する大気維持管理局やコウの従親が局長を務める食糧資源局はほとんどの職員がイルカ種だ。このように〝区分け〟を行うことで、イルカ種はイルカ種を、シャチ種はシャチ種を統治する機構が作られている。

シャチ種の局長は知事が指名して上院が承認するのに対し、イルカ種の局長を指名するのはイルカ種評議会であり、承認は下院だ。評議会の構成員はイルカ種で、下院もイルカ種のみが選挙権を持っているため、形式上イルカ種は雇用に関して独立した権限を持っているように見える。しかしこれには裏があり、評議会の構成員になるにも局長になるにも準上級市民権が必要となる。そして、準上級市民権は知事が付与する。もし準上級市民としてふさわしくないと知事または上院議会が判断すれば上級市民権を取り消すことも可能だ。その結果、イルカ種の指導者層も地位を維持するためにはシャチ種に〝配慮〟しなければならなくなる。例えばコウを排除したければ、知事は単に準上級市民の権利を剥奪すると言えばそれだけで良い。

「兄貴のせいで俺を辞めさせられなかったから、狙いをコウに変えたのかもな。奴はなにしろ小心者だ。強権つかうのをためらったんだろう。無理矢理人気のあるお前を排除すれば本当の権力者が誰なのかイルカ種評議会に知らしめることになるからな。ったく狡い野郎だ」

突然、背びれを触られて振り返る。いつの間にかユウキが背後に立っていた。何が起こっているのか理解しきれていないのだろう、幼さの残る顔に困惑の表情を浮かべ、ナガトとコウの背びれを掴んでいた。ユウキの頭をぽんぽんと叩き、これからどうするか思案する。

キミトが裏で手を引いているとすると、あの集まりの目的は三つ、一つは一般市民に広がる不満を準上級市民に向けること、もう一つはイルカ種自身の手でコウを排除すること、そしてナガトが進めようとしている権利拡大の動きに対し、イルカ種自ら反対させることだろう。現段階では賛同者を増やすのが主目的であり、ナガトやコウに対して直接的に危害を加えようとは考えていないだろう。それに主流派ではないとはいえ、ナガトは一応上院議員だ。上院議員に暴力行為を行ったとなればただでは済まないことは彼らも理解しているはずだ。問題があるとすれば、彼らが上院議員を相手していることに気がつくかどうかだった。知事や有力者と違い、ナガトのような木っ端の議員がマスメディアに登場することはほとんどない。一般市民がナガトの顔を覚えているとは思えなかった。用意周到な知事のことだから、末端の実働部隊には誰が首謀者なのか分からないようにしてあるに違いない。彼らは使い捨て可能なただの一般市民と見るのが良いだろう。感情の昂ぶった彼らが、大柄なシャチ種であるナガトを見て一方的に絡んで来たりすると厄介だった。

「警備局に連絡入れてみたらどうかな?」

腕を組んで思考を巡らすナガトに、コウが言葉を投げた。ナガトは頭を横に振ってだめだと答える。

「昨日の今日で厄介ごとを起こすのは避けたい。それに、実際に害を受けたってわけじゃないしな。下手に騒ぎ立てると俺らがイルカ種の政治活動を邪魔したなどと言われかねない」

「それもそうだね。抜け道があれば良いんだけど……駅に行くには必ずあそこを通らないといけなさそうなんだよなあ。参ったね、これは」

頭部端末に周辺の地図データが送られてくる。確かに抜け道はなさそうだった。ただ、仮に抜け道があったとしても、こそこそと逃げ回るような事はしたくなかった。それに今回彼らに出くわしたのは単なる偶然だ。騒乱を嫌うキミトの性格を考えると、ナガトには直接手を出さないよう厳命している可能性もある。ナガトは小細工はせずに、堂々と通過しようと心に決めた。いざとなればこの腕力でねじ伏せてやるまでだ。とはいえ、コイツだけは巻き込まないようにしないとなと所在なさげに尾びれを動かすユウキに目をやる。

「コウ、ユウキを連れて先に駅に行ってくれ。帰宅者の集団に紛れ込めば気づかれずに通れるだろう」

「それは良いけど……ナガトはどうするの? まさか突撃しようだなんて思ってないよね?」

「当たり前だろ。俺はただ帰宅するだけだ。見てればシャチ種には声を掛けずにただ通過するにまかせているようだし、別に問題は無いだろう。万が一絡まれるようなことがあれば、堂々と反論してやるさ」

「頼むから早まったことはしないでよね。ナガトと僕だけならまだしも、今日はユウキが居るんだし」

コウが言葉を切って眉間に皺を寄せる。

「……映像と音声の回線は開いておいて」

片手を挙げてナガトが分かったよと返事をする。クリック音を発して頭部端末に指示を出す。回線が繋がったことを確認したコウは、「行こうか」と行ってユウキに手を差し出す。ユウキはその手を払いのけ、ナガト達の方へと向き直った。

「ナガトがあいつらと戦うんなら僕も一緒にやらせてよ!」

自分を大きく見せるためなのか、腕を組んで胸を張っている。ぶんぶんと振り回される尾びれを、ナガトがぐいと掴む。

「なーに言ってんだ、可愛らしい双子にビビってたおこちゃまが。大体だな、俺は戦いにいくんじゃない。ただ通るだけだ」

「ナガトが出ると大体喧嘩になるじゃん!」

言うことを聞かないユウキの腕をコウが掴み、強引に休憩所の外へ引きずっていく。

庶民の思い?

網膜ディスプレイに投影されたコウとユウキの位置を示す輝点は、あっさりと集団の前を通過し、そのまま駅の方向へと進んで行った。これだけ離れれば安全だろうと判断したナガトは休憩所を出る。不自然にならないように周囲の帰宅者と合流し、歩調を合わせて駅へと向かった。イルカ種の兄妹がナガトのすぐ脇を駆け抜けていく。そのすぐ後を母親と思われる女性が小走りで追っていった。前方を六十人程度の集まりが道幅十メートルのおよそ半分を埋めていた。そのうちアジテータは二十人ほどのようだ。それと分かる服装や装飾品はしていなかったが、出で立ちが普通のものと違っている。残りは一般人ということになる。前方を行く兄妹は、母親に手を引かれて集団からなるべく遠ざかるようにルートを変えた。ナガトも同じように遠巻きにやり過ごそうかと一瞬思ったが、どうせなら何を訴えているのか聞いてみることにする。後でコウには色々言われるだろうが、ここでコソコソするのはナガトのスタイルではない。

「みなさん、このままで良いんでしょうか! 知っての通り、私達の住むこのドームの資源は限られています。私達は徹底的に無駄を省き、限られた資源を極限まで有効に活用して子孫に伝える義務があるのです! それがどうでしょう、今の体制の無駄の多いこと! いえ、正確に言い換えましょう、今のトップはなかなか良くやっていると思います。問題はその間の連中なんです!」

ナガトは歩みを緩め、熱心に演説を続ける女性の声に耳を傾ける。背びれの折れぐあいを見るに、中年なかばに思えた。威圧的な真っ赤なジャケットを着ているということもあり、かなりキツイ印象をナガトは受けた。

「見てください、あなたの職場の上司である準上級市民、いや、汚職にまみれた偽貴族達を! 彼らは完全に腐っています! 与えられた資源を有効に活用するどころか自分達の私腹を肥やすことにだけ熱心で、ドームの将来、私達の子供の未来を考えているようには思えません!」

女が大きく手を振り、聴衆に話しかける。何人かが「そうだ!」と叫ぶ。それに応えるように、見物客と思われる人間の間にも賛同の声が広がってゆく。ずいぶん手慣れた活動家に思えた。とても新規に立ち上げた組織とは思えない。古参の活動家ならコウが把握しているだろうことを考えると、やはり知事が糸を引いていると思った方が良い。ナガトは聴衆の最外周で足を止めた。コウからはさっさとそこを離れるようにというメッセージが飛んで来る。

「しかし皆さん、ある意味で彼らは犠牲者でもあるのです。彼らの裏にはさらに腐った悪の根源がいるのです! セントラルタワーでのうのうと暮らす無能なシャチ種の連中です。皆さん知っての通り、大半のシャチ種の方々は与えられた能力に見合った、危険かつ重要な責務を果たしています。にもかかわらず、にもかかわらずですよ皆さん! その責務を果たそうとしない無能な連中があろうことか準上級市民の連中に多額の賄賂を要求し、利権を与え、腐敗の土壌を生んでいるのです!」

ナガトは自分の読みが正しいことを確信し、拳を握った。疎ましい勢力を犠牲者としてつるし上げ、ガス抜きをする。一石二鳥のずる賢いやり方だ。社会というのは複雑で、病巣を一つ取り除けばすべて完治というものでは決してない。しかし、一般市民はいつも単純でわかりやすい〝敵〟を望んでいる。その〝敵〟として選ばれそうになっているナガトやコウにとってはたまったものではなかった。そして、知事の一派がこれほど早急に自分達の排除に動くと予想していなかったことを悔やむ。早急に対策を考えねばとナガトは気を引き締めた。

「ここに居る皆さんのお子さん、私達全員の子供が安心して暮らせる社会を作るためにも私達はこれらの腐敗に対抗して行かなければなりません!」

プロパガンダが続けられる。ナガトは一般市民がこの言説に乗るだろうかと周囲を見渡した。多くは半信半疑と言った様子ではあったが、演説者の言葉に耳を傾けているようでもあった。皆日々の生活に不満を持っており、諸悪の根源を知りたがっているのだろう。

「私はこの腐敗を示す酷い事件が、つい最近起こってしまったことを知りました。今も怒りに、連中の身勝手さに、身体が震えます! 今から私が言うことはまだ新聞には載っていません! 今後も公になることはないでしょう。しかし、私の良きパートナーでもある良心を持ったシャチ種の方が教えてくださいました。皆さん、心して聞いてください! なんとシャチ種の一部が自分達に課せられた危険で厳しい職務を放棄し、イルカ種に押しつけようと画策しているようなのです! 私は信じられませんでした。確かにシャチ種はイルカ種よりもずいぶんと優遇されています。しかし、それはある意味で仕方がないことではあるのです。何しろ、暗く、寒く、常に死と隣り合ったドーム外での作業を義務づけられているのですから。それがなんと、彼らの一部がその責務を私達イルカ種に押しつけようとしているのです。その結果何が起こったかをお教えしましょう。なんと、私達の同胞が乗った船が座礁し、その乗員全員が命を失ったのです! 聞くところによると、彼らは何ら訓練も受けずにドーム外のパイプ修理を押しつけられ、哀れにも事故に遭ってしまったのです!」

マイクを手に首を振る中年女性の言葉に、ナガトは耳を疑った。訓練船の事故は機密事項だ。イルカ種権利拡大を目的としたドーム外作業訓練については上院議会で正式に承認されているため、その気になれば誰でも入手可能だが、事故については隠されている。シャチ種の中でも関係者以外は知らない。もちろん熱源管理局の職員は知っているが、彼らが情報を流すとは思えなかった。情報源として考えられるのは知事一派だったが、策略のためとはいえここまで情報を漏らすのかとナガトは愕然とする。歪めた形ではあったが、事故が明るみに出れば教育局にも傷が付く。もしかしたら自分は知事を見誤っているのではないかと不安に思えてきた。

「これはどう考えてもおかしい! 権利には義務がつきものです。身体的にも我々よりシャチ種の方が水中作業に向いているのは明らかです! にもかかわらず、恥知らずな一部の連中が我々に危険な作業を押しつけようとしているのです。我々は彼らの尊い犠牲を無駄にすべきではありません!」

「ちょっとまて、それは違う! 彼らは死んでいないし、ドーム外作業の訓練は君達イルカ種のためなんだ!」

気がつくとナガトはそう叫んでいた。突然大声を上げたシャチ種の大男に驚いたのか、聴衆がさっと距離をとる。頭部端末からコウの罵声が聞こえてきた。接続を遮断する。

「失礼。私は上院議員のゴウサカ=ナガトだ。君達の言っていることは事実とは異なる。誰に言われたのか知らないが、このような嘘をふりまくのは止めてもらいたい」

演説していた中年女性を守るように男性数人がナガトの周囲を取り囲む。彼らの手には懐中電灯が握られていた。シャチ種の中でも大柄なナガトに対し、一歩も引かないその動きは良く訓練されているようだった。汗に滲んだワイシャツの下には、引き締まった筋肉が透けて見える。皆大小の傷を持っているのを見るに、荒事になれた連中なのだろう。ナガトはふとその中の一人、背びれの一部が欠けた人相の悪い青年に、見覚えがあるような気がした。

「これはこれは、先ほどから立派な装いのシャチ種の紳士がおられるとは思っておりましたが、まさか上院議員の方だったとは。あなたのような高貴な方がこのような庶民の憩いの場にいらっしゃるとは意外ですね。それともなんですか、なにか私的な用事があってのことですか? 例えば、水耕栽培室の室長殿などに?」

周囲を取り巻く青年達から嘲笑が漏れた。ナガトは堂々とした中年女性の態度におやと思った。木っ端の活動家だろうと思っていたが、相手が上院議員と聞いてたじろがないところを見るに、上層部と付き合いの深い人物なのかもしれない。

「いやいや、私はただ休日をゆっくり過ごすために来ただけなんだ。偶然通りかかったところに根も葉もないことを言って、よからぬ事を企む連中を見かけたものでね。いや、あなた方がというより、あなたの後ろに居る誰かが企んでいるといった方が良いかもしれないが……いや、すみません、これは議論と関係ありませんね忘れて下さい」

ナガトは両手を広げて笑顔を浮かべ、突然の出来事に一歩引いた聴衆へ向けて自分が無害な存在であることをアピールする。政治家として鍛えられた笑顔がこういうときは役に立った。そのかいもあってか、この場を去ろうとしていた何人かが足を止めた。

「誰に吹き込まれたのかは分からないが、ずいぶん思い違いをしているようだね。なにもドーム外作業訓練は我々が楽をしようと思って推進しているわけではないよ。あくまでシャチ種に権利を独占させたままにしないためにやっているんだ」

どこからか「嘘だ」という声が上がる。中年女性がその言葉に応え、一歩前に出る。

「そのようなこと、誰が信じます? 今まで何百年もあなた方がその作業を独占して上手くやってきたではないですか。我々がいつドーム外作業をやりたいなどと言いましたか?」

「その何百年と続いてきた歪みが、今のあなた方の不満を生み出しているんだ。海中作業は海底で生きる我々にとって必須の技術であることは事実だろう? そのコア技術をシャチ種だけが独占しているという今の状態が格差を生み、イルカ種を苦しめる一因になっていることを認識してもらいたい」

ナガトの言葉を中年女性達が鼻で笑う。周囲の聴衆もナガトの言葉にピンと来ているものは居ないようだった。

「あなたの言うことはよく分かりませんね。一体それで何が変わるというのです? あなた方シャチ種が我々に特権を譲るとでも? 大体それであなた方に何の得があるって言うんでしょう。それともなんですか、あなたは何もかも平等にすべきという考えの持ち主なんでしょうか? 一目見て分かるじゃあないですか、私の貧相な身体に比べ、立派な体格をお持ちじゃないですか。泳ぐスピードは段違いでしょうね。にもかかわらず私に同じだけの仕事をしろと? それこそ非効率では?」

中年女性のねっとりとした視線が身体にまとわりつくのを感じた。嫌悪感を覚えながらもナガトはその視線を見返す。

「勘違いしないで欲しいんだが、海中作業は別に素潜りで行うわけではないし、筋力が必要になる作業もごくわずかなんだ。必要なのはむしろ、船や機器を上手く使う能力の方で、これに関してはシャチ種とイルカ種で大きな違いがあるとは思わない。むしろ狭い船内を有効活用するには私のようなデカブツよりもあなた方イルカ種の方が向いているとも言えるね。そして次にそれで何が変るか? 残念ながら、私もイルカ種がドーム外作業技術を身につけることで劇的に生活が向上するとは言えない。しかし、政策にイルカ種の声が反映されやすくなるということは確実に言える。それに、イルカ種がドーム外作業技術を習得すればドーム全体の能力は劇的に高まる。皆さんご承知のように、我々はじわじわとドームの拡張作業を行っている。だがその歩みは遅い。なぜなら人的資源が決定的に不足しているからだ。それが解決すれば拡張は一気に進むんだ」

一度言葉を切って聴衆がその意味を咀嚼するのを待つ。中年女性から視線を外して、周囲を見渡すと、数人がナガトの意見に耳を傾けているように見える。

「私達は内にこもって停滞するのでは無く、外へと発展して行かねばならないんだ。そう、我々の先祖が地球という惑星を飛び出し、星々の間へと航海に出たように。正直に言おう、私達シャチ種だけでは力が不足してる。これだけは間違い無い事実だ。そしてそれを大半のシャチ種の人間は分かっていない。それこそがあなた方イルカ種を苦しめている原因でもあるんだ。シャチ種がそれに気づけば必ず社会は変わる。だから、それを放棄するようなことはしてはいけない!」

ナガトは目の前の中年女性を指差す。

「彼女は先ほど、限られた資源を無駄にしてはいけないと言った。それはその通りだ。現状は人的資源を無駄にしすぎている! あなた方イルカ種という人的資源を無駄にしているんだ!」

周囲からぱらぱらとではあるが、拍手が聞こえてくる。一般のイルカ種庶民にも受け入れてもらえる土壌があったことにナガトは安堵した。唐突ではあったが、それを確かめる機会が出来たという点で、中年女性に感謝しても良いかもしれないとさえナガトは思った。

「流石は上院議員殿だ。非常に感動的な演説でした。しかしね、私達にとってそのような壮大で夢のような理想論はあまり意味が無いんですよ。あなたが言う聞き心地の良い夢物語などはっきり言って信用できません。あなた方シャチ種の一部と我々の上層部はいつでも机上の空論だけ並べて私達庶民を煙に巻こうとする。実際のところどうなんです? あなたが実施した施策で不要な事故を起こし、イルカ種の乗員が犠牲になったではないですか! あなたは理想のためなら彼らは殉職して当然だとそう仰るのですか? 私はそんな人間を信用など出来ません!」

さくららしき連中が「そうだ!」と賛同する。

「だから、犠牲者など出ていないんだ! 乗員は全員無事に帰還している!」

「ほう、無事に帰還ですか。ということは事故は本当にあったんですね? 事故はあったけれども犠牲者は居なかったと?」

女性が更に一歩前に出る。言質をとったと得意げに見えた。

「確かにトラブルがあったのは事実だ、しかし……」

ナガトの言葉を中年女性が遮る。

「みなさん、聞きましたか? このとおり、やはり事故はあったのです! そしてあなた達はそれを隠蔽していた!」

ナガトは不利な状況に追い込まれていた。一般人からしてみればナガトは完全に権力サイドの人間、〝持った〟人間だ。いくら事実だと言い張ったところで信用してもらうのは難しい。それに、ナガトが意図していたことではないとはいえ、隠蔽しているのは事実だった。思わず尾びれに力が入って地面を離れる。このままこの女を強靱な尾びれで張り倒すことが出来たらどれほど気持ちが良いだろうか。その衝動を堪える。聴衆のざわめきが聞こえてきた。ナガトは場の空気が、一変したのを感じた。勤めて冷静に応える。

「私達の準備不足でトラブルは確かにあった。しかし、乗員に犠牲は出ていない。全員無事だ」

「それは本当ですか?」

「本当だ。乗員四名は私が自ら救出した! 経緯は教育局がすべて記録している。疑うのであれば照会してみれば良い」

中年女性が鼻で笑った。

「自ら処分を下したの間違いではないですか? 果たしてその記録とやらもどの程度信用できることやら。私達はすでに事実を調査しています。なにしろ、その乗員の一人は私の知り合いだったんですよ? そしてご家族から彼は今も行方不明だと聞いてます。そもそもここを舞台に選んだのも、彼が水耕栽培室出身だったからなのです。彼らのご家族はこの真実が世間に広がることを望んでおられます。トラブルは確かにあった。そしてあなたは自らの野望、それが先ほど語って頂いた夢物語のためか、それ以外の目的があったのかは知りませんが、あなたご自身の欲のために隠蔽したのでしょう。皆さん、私は近いうちにこの事実を同胞や理解あるシャチ種の方々に広めていこうと思っています。不正はすでに蔓延しているのです! ここで根絶しなければなりません! そのためにも皆さんの協力が必要なんです!」

どこからか飛んで来た空き缶をとっさに手で払う。ナガトを取り囲む輪がじわじわと小さくなってくる。いっそのことこいつらを血祭りに上げたらどうかと、本能がささやく。ナガトはその気持ちを抑え、両手を挙げる。

「トラブルの原因は私にある。それは認めよう。しかし、みんな冷静になって考えて欲しい。自分達が将来的にどうしたいのかを!」

この場では何を反論してもひっくり返すのは難しいと判断したナガトは、せめて暴力沙汰だけは避けようと思っていた。そんな中、何者かがナガトの周囲に広がった間隙に足を踏み入れてきた。

「すみません、一つ質問してもよろしいでしょうか?」

周囲の目が、一人のイルカ種青年に向けられる。いつの間にか聴衆に紛れていたコウだった。すたすたと前に進み出ると、中年女性へ一礼した。つい先ほどまで勝利を確信した笑みを浮かべていた女性の顔が、乱入者の登場に強ばる。ナガトも突然の出来事に動けずにいた。

「危険を冒して重大な事実を教えてくださり、ありがとうございます。非常に驚愕しました。あなたの言うことが本当ならこれは大変だ! 私もぜひ真実の喧伝に協力したいと思っています」

コウは女性の周囲を固める取り巻きなどまるで無視して中年女性へと近寄り、片膝を着いて握手を求める。当の女性は最初、警戒して身を固くしていたが、賛同者であると判断したのか差し出されたコウの手を両手で包み込む。

「そのように仰っていただけると、私も勇気を出して皆さんに真実をお話ししたかいがありました。あなたのような立派な方が協力してくださるというのなら安心です。なにしろ、権力欲に取り付かれた人間というものはいつでも嘘ばかり言うのです。隠ぺいされた事実をより多くの人に明らかにするために、人手が必要なんです」

聴衆全員に語り掛けるように女性が言う。その言葉にコウは何度も頷いている。ナガトは制止しようと小さなクリック音を出し、音声回線を開く。コウからの応答はなく、「黙っていろ馬鹿」というメッセージだけが返ってきた。

「ええ、分かります。分かります。こういうことは公共ネットワークで簡単に広めるというわけにはいかない。そんなことを政府が認めるわけはありませんし、改ざんされる可能性も高い」

中年女性の手をしっかりと握り返し、コウが続ける。ナガトは恋人の言動を訝しみつつも黙ってみているしかなかった。

「それに、何も知らない人にその真実を伝えるのがまた難しい。ネット上の情報というのはやはり胡散臭いものですし、なかなか信じてもらえません」

コウの言葉に、その通りだと中年女性が同意する。

「そうだ。より真実味を出してこのことを伝えるために犠牲者の方のお名前を聞かせてもらうことはできませんか? そうすれば一層真実味が増すことは確実です」

「え……、ええ。しかし、彼らのご家族が……」

「おや、彼らのご家族はこの件を世間に知らしめることをお望みだったのでは? 犠牲者の方はわれらの英雄ではないですか。彼らもご家族もきっと反対などされないと思いますよ」

中年女性は弱い笑顔を浮かべて少しの間思案していたが、やがて口を開いた。

「Wエリアのスイコウ=コシヌ=タツミ、それが彼のお名前です。他三名のお名前はわかり次第お知らせしますわ」

「本当ですか?」

中年女性は自信を持って頷いた。それを見たコウが薄い笑みを浮かべる。初対面の人間には分からないだろうが、ナガトにはその笑みに含まれた嫌らしさに気が付く。そしてコウの意図にも気が付いた。パッと聞いたところではその被害者の名には真実味がある。イルカ種の庶民は自由に名前を付けることができない。名の一つ目は所属する部署に対応し、〝スイコウ〟は水耕栽培室に属する事を示している。職業選択の自由がほぼ無いイルカ種は代々同じ部署に就くことになるため、部署名がそのまま家門名になるのだ。二つ目は主親の姓を表し、〝コシヌ〟はWエリアによるある姓だった。そして最後は通り番号を示している。おそらくこの最後に矛盾があったのだろう。コウがすっと立ち上がり、中年女性を見つめる。

「おかしいですねえ。水耕栽培室はまだ29157番タウホまでしか登録されていないはずですが? タツミは番号に換算すると29819番になりますよね? あと、コシヌ姓はWエリアの水耕栽培室にはほとんど居ません。居るのはNエリアとSエリアのみでWエリアには居ないはずなんですが……その情報、正しいですか?」

コウの従親は食糧資源局の局長だ。そして、水耕栽培室は食糧資源局の下位部門になる。この手の情報はコウの範疇だ。

「あ、あら? そうだったのかしら? もしかしたら私の聞き違えなのかもしれませんわね、何しろ直接の知り合いって訳じゃありませんし」

おそらく中年女性は適当な名前を用意していたのだろう。たとえ適当ではあっても、それっぽい名前であれば一般人には分からない。まさか目の前の美男子が先ほど自分が糾弾していた準上級市民であるとまで思い至らなかったようだ。

「うーむ、にしてもミドルネームもラストネームも違うというのは気になりますね。あなたが言ったことが本当ならば世に知らしめる必要がある。しかしですね、それが真実でないとなると……」

「名前の件は多分、私の聞き違えです。しかし、事故があったことは真実なのです! これだけは私が保証いたしますわ」

「とはいえ、なんの証拠もなしにこのような事を広めるわけにはいけませんよねえ」

女性の笑みが凍り付く。その直後、ふふんと鼻を鳴らして腕を組んだ。

「あなたさては、腐った連中のお仲間ね? どうせその上院議員の方と通じているんでしょう? 皆さん、だまされてはいけませんよ! 私が言ったことこそ真実なのです!」

中年女性が周囲を見渡しているが、先ほどのようにはいかないようだ。聴衆は距離を置いている。厄介ごとには巻き込まれたくないと思ったのか、去って行くものも少なくなかった。聴衆から見て双方とも証拠が無いという点は先ほどから変わらないが、女性が言ったことに嘘が間違いがあったということが大きかったのだろう。コウが一歩前に進み、中年女性を見つめる。

「真実だと言っているだけでは話になりませんよ、お姉さん。途中から聞いていましたが、あなたの発言はちょっと偏っているように聞こえます。私達の権利が拡大するという点で、彼の主張は何も悪くはないのでは? 確かに、その背後に裏の意図が隠されているのならば用心しないといけない。しかし、結果を見ずに陰謀だと騒ぎ立てるのは決して利があるようには思えないのですが……」

「あなたは自分が当事者じゃないからそんな事が言えるのよ! それともあなたは自分さえ良ければ十分とおっしゃりたいのかしら!」

ヒステリックに叫ぶ女性の向こう側にユウキの姿が見えた。尾びれを振り上げ、今にも女性に飛びかかろうとしている。それを見てナガトはとっさに走り出していた。青年団が勘違いしたのか、女性を守ろうとナガトに襲いかかってくる。

「待てユウキ! コウ、後ろ!」

足元を掴まれたナガトがバランスを崩し、地面に倒れ込む。ナガトがその身をひねって青年団の一人に強烈な尾びれの一撃を加えたのとほぼ同時に、コウが身を翻した。コウはそのまま悲鳴声を上げる中年女性の横を通り抜け、ユウキを背に隠す。

「ほら、やっぱあなた達グルだったんじゃない! 私を暴力で黙らせようとしたって無駄よ! 真実はここに居る皆さんが見ているんですからね!」

体格差があるとは言え、複数人が相手では振り払うのは難しかった。水中ならまだしも地上では手練れの集団を相手するのは荷が重い。すぐさま地面に押さえつけられる。誰を相手にしているのか考える頭があれば、これ以上の騒乱は望まないだろうと信じたいが、感情をむき出しにする目の前の女性を見ると不安になってくる。

ユウキの過去

抜けだそうともがくナガトを、青年団の一人が地面に強く押さえつける。自分とコウだけならなんとかなるが、ユウキを巻き込む訳にはいかない。警備局へ通報するしかないかと思ったそのとき、コウの後ろからユウキが飛び出してくる。

「ユウキ、暴力は駄目だ!」

ナガトの叫び声に気が付いたコウが慌てて腕を伸ばす。ユウキはその間をするりと抜け、中年女性の前へと駆け寄った。顔を上げたユウキは、いままで見たことが無いくらい怒りに満ちていた。ナガトは今にも殴りかからないか心配で仕方がなかったが、どうにか堪えているようだ。

「な、なんなのよあなた!」

自分の年齢の半分もいっていないであろう少年の気迫に、女性がひるむ。

「おばさんなに適当なこと言ってんだよ! この二人はな……ここにいる二人は俺達のために頑張ってくれてんだよ! それを何だよ、ボロかすに言いやがって! お前らみたいなヤツが居るからいつまでたっても良くなんないんだよ!」

良く通る声でユウキが叫ぶ。

「いつまでも人のせいにしてるから変わんないんだよ! 自分達のことは自分達でやる、僕らにはいつもそう言うくせに、大人達はそれをやってないじゃん。そんなお前らがっ……ナガト兄ちゃんに何してんだよっ! 離せよ!」

歯をむき出しに、ナガトを押さえつけていた青年に詰め寄る。普通なら軽くいなされるだろう。だが、あまりの剣幕に押されたのか、ナガトを捉えていた力が緩む。その隙を突いてナガトは拘束から抜け出すと、ユウキを青年団から引き離して背に隠す。コウもユウキを間に挟むようにナガトの後ろにつき、三人を取り囲む男達を威嚇した。ユウキは二人の間から顔を出すようにして女性へ叫んだ。

「俺の父さんと母さんはな、そのせいで死んだんだよ! 俺達が自分で自分の事を出来ないからっ!」

ナガトはコウに向けてクリック音を放ち、ここはユウキに任せようと伝えた。コウが黙って頷く。ユウキの声が通りやすいように少し間を空ける。

「ぼうや、とても大変な目にあったんでしょうね。可哀想に。まだこんなに子供なのに。ほら、そんな怖い顔をしないでこっちにいらっしゃい。あなたのような可愛らしい子がそんな汚い言葉をいっちゃだめ」

猫なで声を出しながら女がゆっくりと近づいてくる。両親を亡くしたことを知り、母性を見せれば懐柔できるとでも思ったのだろう。ユウキは薄汚れた大人の意図を見透かしたかのように、女性を無視すると騒動を興味深そうに観察していた聴衆に向けて口を開く。

「み、みなさん、初めまして。僕はこの二人、ナガトとコウにお世話になっているユウキと言います。本名はスイゲン=ゴウサカ=キウユです。みんなにはユウキって呼ばれてます。……いきなりすみません。でも、僕はみんなにこの二人のこと、勘違いしないで欲しいんです。だから、その……僕の話聞いてみてください」

緊張しているのかたどたどしい口調でユウキが話しはじめる。

「僕の両親は食糧資源局の水源管理室で働いてました。あんまり良いものは食べられなかったし、お風呂もあまり入れなかったけど楽しくしてました。多分、ここに居る人と同じような感じだったと思います。そりゃあ勉強は面白くないし、職業訓練はしんどいし、休みの日も遊びに行けないしで退屈だなあって思うこともいっぱいありました。でも、嫌だとは思いませんでした。お母さんもお父さんも大変そうだけど、元気でした」

イルカ種庶民の大半はユウキの両親と同じようなドーム内の業務に就いており、大多数の人は物足りなさを感じつつもそれなりに幸せな日常生活をおくっている。危険な業務に就くのは、シャチ種や準上級市民に属するものか、イルカ種の中でも特に下位に位置するものだ。

「僕もそりゃあネットやテレビで見るような有名人になれたら良いなとか、かっこいい仕事ができたらいいなとは思ってたけど、お父さんやお母さんの仕事が絶対に嫌だとは思ってませんでした。確かに船を操縦するのはかっこいいけど、ドームの外はちょっと怖いなって思ってましたし。いまもちょっとそう思ってます。でも、やっぱり水源管理室の仕事ってすごく大事な仕事だと思ってます」

一般市民には職業選択の自由はほとんど与えられない。ユウキも何も無ければ両親と同じような人生になっていたはずだ。最初はざわついていた聴衆も、いつの間にか静かになり、ユウキの話に耳を傾けているようだった。

「ある日、僕がいつも通り国語の授業をぼんやり聞いていると、校長先生がいきなり教室に入ってきました。そこでいきなりお父さん達が亡くなったって言われました。僕は意味が分かりませんでした。『無くなるってどういうこと? 迷子になったの?』って言った気がします。なんで先生が泣いてるのか分かりませんでした。その日は先生の家に泊めてもらいました。次の日も、その次の日もやっぱり先生の家に泊まりました。そのあと、地区代表の人と一緒に病院に連れて行かれました」

ユウキがごくりとつばを飲み込む。

「僕はそのとき、もしかしたらそうかなとは思ってました。でも、信じられませんでした。お母さんとお父さんがベッドの上に寝かされてました。触ってみると冷たかったんです。びっくりするくらい。顔も真っ青でした。そのときいきなり、そこに居るナガト兄ちゃんが僕を抱きしめて謝ってきました。僕はいっぱい泣きました」

奥歯をかみしめながら話すユウキの姿に、ナガトはいたたまれなくなった。自分は子供を政治に利用しようとしているのではないか。ナガトが伸ばした手を握り、ユウキがウインクするのが見えた。

「これは僕がもうちょっと大きくなってから聞いたことだけど、僕の両親は低体温症で亡くなったらしいです。身体が冷えて死んでしまったって事です。そう聞かされたとき、僕はやっぱりなんでって思いました。だって、水源管理室の仕事の授業を思い出しても凍えてしまうような仕事ってあったかなって思ったからです。ドームの外は冷たい海水でいっぱいってことは知ってました。水源管理室はドームの外から水を引き込んで飲み水や農業で使う水を作る部門です。でも、実際仕事するのは暖房が効いてるドームの中だけだって学校では教えられてます。だからなんでかなって」

世襲が基本のイルカ種庶民は幼少の頃から自分が属する部の仕事についてたたき込まれるのが普通だった。だからこそ、当時はまだ初等科だったユウキでも両親がどんな仕事をしているのかはなんとなく理解していたのだろう。

「詳しいことはナガトお兄ちゃんから教えてもらいました。その日、僕の両親は水圧調整室で整備をしていました。水圧調整室は海水を淡水にするフィルターに水を通すために、圧力を調整するための機械が置かれている部屋のことです。海水は海底からパイプを通ってこの部屋まで来ます。水が漏れないように海水が通るパイプにはたくさんの安全装置がついていますが、もしものときのためにこの調整室は壁の外側に置かれています。この調整室と今僕達が居るドーム中との間には分厚い壁があります。もし調整室で水漏れがあったら、すぐに扉が閉まって、ドーム中へ水がはいる事を防ぎます」

最初は小さかった声も、いつのまにか聴衆全員がききとれるほどに大きくなっていた。

「お父さん達が整備するこの部屋の機械は完璧でした。なんの問題もありませんでした。でも、お父さん達のすぐ上、排水設備にはいつのまにかたくさんの水が溜まっていました。海底から来る水はとても冷たいので、パイプの表面には水滴がいっぱい出来ます。それに、いろんなところから少しだけど水が漏れたりもします。それを海中に排水するのが排水設備です。普通ならポンプが働いて溜まった水をドームの外へ捨てるんですが、何ヶ月も前から海底の排水口が詰まっていて、どんどん水が溜まっていきました。海底と排水設備の間はとても強力な壁があるので水が漏れる心配はありません。でも、排水設備とお父さん達が居た調整室の間はあんまり強くありません。作業しているときにいきなり屋根が落ちて溜まった水が調整室に流れ込みました。大きなアラームが鳴って、両親は閉じ込められたらしいです」

ユウキの話を聞きながら、ナガトは当時の録画映像を思い出していた。突然の出来事にパニックを起こし、戸惑うばかりの職員達。日々のルーチンワークには習熟していても、非常時の対応については何も教えられていないどころか決まってもいなかったのだから無理もない。

「それから両親がどうしたのかは分かっていません。でも、溺れ死んだわけじゃないみたいです。ナガト兄ちゃん達が助けに来てくれて、救助されたときにはもう亡くなっていたらしいです」

ナガトはそのときのことをよく覚えていた。水源管理室では手に負えないと判断した当時の室長が、上位部署である食糧資源局を通じて熱源管理局へ協力要請を行い、ナガト達のチームが救助隊として編成されたのだ。救助作業は難航した。漏水の原因が分からないことにはドーム内と調整室を遮る扉を開くわけには行かない。結局、海底側から侵入し、原因を特定することでようやく二人の遺体を回収することが出来た。調整室の水量は限られており、泳ぐ機会など滅多にないとはいえ二人も海獣の血が混じったイルカ種だ。溺れることはなかった。しかし、水は海水温とほぼ同じゼロ度近くまで冷えている。いくら海獣の遺伝子を取り込んでいるとはいっても、生身で氷点下近くの水温に耐えられるほどの脂肪を蓄えることはできない。シャチ種でさえ海中作業を行う場合には体温保持のためのウェットスーツが必須だ。救助までに2日かかったということもあり、ナガトが二人を発見したときにはすでに文字通り冷たくなっていた。

「なぜ、僕の両親は死んでしまったのか。僕は考えました。周りの人は僕に言います、これは悲しい事故だったって。確かに悲しいです。でももし、排水口が詰まってなければ事故は起きてないんです。なんで排水口の詰まりを直せなかったかのか、ナガト兄ちゃんやコウ兄ちゃん、ほかのいろんな人に聞いてみました。排水口は水源管理室の持ち物で、自分で直さないといけない。でも、僕達イルカ種はドームの外で作業できない。だから、他のところに頼まないといけないのだけど、それが大変らしいです。僕もトイレ掃除を上級生にお願いしろって言われたら困ります。僕は、これがお父さん達が死んでしまった原因だと思ってます。もし僕達イルカ種が自分の力でドームの外に出て排水口を掃除出来ていれば、多分事故は起きてません。もちろん、僕もいきなり外に出て仕事してこいって言われたら無理って言います。でももしそれで両親の命が助かるのなら、頑張ります」

ユウキはそこで言葉を一度切り、ナガトとコウの方へ向き直る。

「それに、ドームの外の仕事は危険です。何かあったらすぐに死んでしまいます。そんな仕事をお兄ちゃんだけに押しつけておくのは駄目なことだと思います。この二人はいつも忙しくて大変です。ついこの間も事故に遭った船を助けるために大急ぎで出て行って、ナガトが怪我をしました。もし、ナガトやコウが死んだらって思うと……」

ついに耐えられなくなったのか、ユウキが泣き出して二人に抱きつく。ナガトとコウは肩をひくつかせるユウキをそっと抱きしめた。まだまだ幼いと思っていたユウキが、ここまで深く考えていた事を知り、胸が熱くなる。そして、そんなユウキにずいぶん心配を掛けていたという事実に、ナガトは罪悪感を覚えた。顔を上げると、コウも目を潤ませていた。「僕達、しっかりしないとね」というコウの言葉にナガトは頷く。

「坊や、つらい目にあったのね。でも、だまされちゃいけないわ。この二人はあなたがそう思うように教育しているだけなの。私が正しいことを教えてあげるわ。だからこっちへ……」

そう言って今まで黙り込んでいた女が一歩踏み出したとき、どこかからジュースの空き缶が飛んでくる。飛び散った中身が、女性の服を濡らした。

「お前ら、まだそんなこと言ってんのか! その子の話聞いてなんでそんな事が言えんだよ! 俺はその上院議員とイケメン兄ちゃんのこと信じるぜ。俺達の権利が増えるんだろ? 良いことじゃねえか!」

肉体労働に従事していると思われるガタイの良いイルカ種壮年男性の声を皮切りに、ナガト達を応援する声があちこちで上がりはじめた。青年団と中年女性が逆に聴衆に取り囲まれ、ナガト達への謝罪を求める声が高まる。ユウキは大勢の人にすばらしい演説だったと褒められ、励まされた。まるで英雄にでもなったかのような扱いだった。ナガトとコウはほっと胸をなで下ろすとともに、時とともに高まるその熱狂を収めるのに苦労した。

そんな中、件の中年女性が青年団の一人に引きずられるようにしてこの場を去る姿がナガトの目に入った。女性の腕をがっしりと掴んで無理矢理引っ張っているのは、ナガトがどこかで見たことがあると思った背びれの一部が欠けた青年だった。何度もつまずきそうになる女性への配慮は全く見えず、安全を確保するためにという風にも見えなかった。ナガトは熱心に話しかけてくる聴衆におざなりな返事をしながら、青年の顔をじっと見る。青年の無表情は悔しがっているというよりむしろ、職務を淡々とこなしているというように見える。まるで抵抗する容疑者を連行しているようだった。そこでナガトははっとした。彼らは女性の支持者ではなく、警備局に連なる人間だ。警備局はシャチ種の部局ではあるが、関連組織としてイルカ種も組織化している。ナガトが見覚えがあると感じたのは、その青年が警備局関係者の独特の攻撃性を強く漂わせていたからだ。彼らは時折、〝箔〟を付けるためにわざと自らの尾びれを傷つける事がある。そして単なる暴漢と違って高度に均一化、組織化が行われていた。既視感を覚えたのはそれが原因だった。それに気づくと、他の青年団の人間からも同じ匂いが感じられた。それが示す意味はただ一つ、知事キミトの影響力が警備局まで広がっているという事実だった。

お祭り騒ぎの聴衆から解放されたあと、ナガトは駅の真ん前で二人に土下座せんばかりの勢いで謝っていた。多くの乗客でごった返す中、膝を着こうとするナガトをユウキが慌てて止める。

「ナガト、もう分かったから! 恥ずかしいから止めてよ。ねえ、コウもなんか言いなよ」

「そのままでいいんじゃない? ナガトがしたいって言うんだからやりたいようにやらせてあげなよ。ほんっと、勝手に飛び出して騒ぎを起こしておいて、中等生に収めてもらうだなんて情けない!」

その通りだと言って、ユウキに頭を下げるナガトへ乗客の目が集まる。

「あー、もう、そういうのは人の居ないところでやってよ! ほら、みんな見てるし!」

「本当に助かったユウキ。まさかお前があんなに色々と考えていたとは思ってもみなかった。それに、色々心配掛けてすまん!」

「あー、アレね。泣いたのはウソ泣きだよ。ウソ泣き。上手かったでしょ? 盛り上げ方とかなかなかだったと思うんだけど。でもちょっと口調を幼くしすぎたかもしれないなとも思うんだよね」

ユウキの言葉に、ナガトだけではなくコウの口からも「えっ」という言葉が漏れた。そんな二人の困惑などいざ知らず、ユウキは言葉を繋げる。

「やっぱりさ、大人って子供の涙に弱いじゃん? それがさ、悲劇的な人生を送ってきた子供からでたら最強だと思うんだよね。思った通りみんな僕の言葉に感動しててさ。ナガトは泣くだろうなあって思ってたけど、まさかコウまで泣くとはね。やっぱり僕って天才かも。はははっ」

無邪気に笑うユウキにつられ、コウが力ない笑い声を上げる。ナガトは「コイツは将来大物になるぞ」と心中思った。

登場人物 =とじる=

ナガト(シャチ種)

本作の主人公。シャチ種とイルカ種の対等な関係を築くべく日々奮闘している。

コウ(イルカ種準上級市民)

大気維持局の課長でナガトの恋人。暴走しがちなナガトのブレイン役。

ユウキ(イルカ種一般市民)

ナガト、コウに育てられる性欲全開の男の子。可愛いけどしたたか。

ナツメ(シャチ種)

ナガトの主親で熱源管理局局長。イルカ種に理解があり、ナガトを支援する。キミトとは別れ、今はミサキと付き合っている。

キミト(シャチ種)

ナガトの従親でドームの知事。ナガトとは敵対関係にある。

キミヤス(シャチ種)

ナガトの兄で上院議員。エリートと呼ぶにふさわしい能力の持ち主でナガト憧れの存在。

コウ(イルカ種準上級市民)

大気維持局の課長でナガトの恋人。暴走しがちなナガトのブレイン役。

ミサキ(イルカ種準上級市民)

コウの主親で大気維持局局長かつイルカ種最高評議会議長。ユミとの関係を解消し、今はナツメと関係を持つ。

ユミ(イルカ州準上級市民)

コウの従親で食料資源局局長かつイルカ種最高評議会副議長。今は独身。

マサヒト(シャチ種)

ナガトをサポートする専任秘書。甘党でビビり。

ヨシヒト(シャチ種)

ナガトの親友で通信局勤務。色仕掛けを得意とし、有益な情報をナガトにもたらしてくれる。