改革に燃える若きシャチ種の上院議員ナガトは、地位向上を目指してイルカ種に対するドーム外作業訓練法案を通す。一仕事を終えてリフレッシュしていたナガトにもたらされたのは訓練船が座礁したとの報だった。謀略の匂いを感じ取り、すぐさま救助に向かうナガトだったが……。果たして訓練船を無事に救出できるのか?
白黒の巨体から伸びた尾びれが上下に動く。そのたびに水面は大きく揺れ、プールサイドからは多量の水が流れ落ちる。背びれが巨体に押し上げられた水を切り裂き、猛スピードで前進する。その背びれの付け根には、炎を思わせる大きな灰色の染みがあった。プールの水深は二メートル以上あるにもかかわらず、自慢の尾びれを振るうには狭すぎた。これでは実力の半分も出せやしない。ゴウサカ=ナガトはそんな事を思いながら盛大に水しぶきを上げる。四方を壁に囲まれたプールは開放感からはほど遠かった。少しでも広く見せるためか天井は青く塗られていたが、むなしさが増すだけで意図通りの効果はないようだ。窮屈なプールをあっという間に泳ぎ切り、端まで達したナガトが顔を上げる。目尻から側頭部に掛けて鋭く延びる、大きな純白のアイパッチが特徴的だ。見上げた先の壁面にはラップタイムが表示されている。その表示されたタイムは理想から一割ほども遅く、ナガトは苛立ち紛れに水面を叩く。
「ったくここは浅すぎるんだよ!」
愚痴をこぼしながらプールサイドに上がるナガトにTシャツ姿の少年が駆け寄ってきた。ナガトが養っているユウキと言う名の少年だ。ユウキが柔らかそうな白タオルを差し出す。
「そりゃあ、ナガトがデカいからだよ。僕らにとってはこれがフツーなの。ほら、タオル持ってきたよ」
差し出されたタオルをありがとうと言って受け取ったナガトは、白黒の勇ましい模様に彩られた脇腹をひと撫でした。見た目通り、優しい感触だ。続いて顔の周りの水滴を拭き取ると、ほとんど濡れていないタオルをぽいと投げる。水滴は嫌いではないし、乾燥しているよりはずっと好ましい。タオルの柔らかさを確かめられただけでナガトは満足していたのだ。ナガトの気の利かない行為に、ユウキが文句を言う。
「ちょっと、ちゃんと拭いてから更衣室入ってよ。そのままじゃ、せっかくタオル持ってきた意味ないじゃん!」
「俺たちは濡れてて当然なんだから、これくらいでちょうど良いんだよ。それに別に掃除するのお前じゃないんだし、これくらい大目に見てくれよ」
「だから、そういう考えが駄目なんだって! そんなんだからいつまで経っても部屋が汚いままなんだよ!」
ユウキがタオルを拾い、ナガトの体に手を回す。妙に距離が近い。ユウキはぴったりとくっついたまま、ナガトの下腹部に手を伸ばしてきた。小さな手がナガトの股間をまさぐるが、当然そこは閉じたままだ。
「ホント、デカいんだよね、ナガトって」
スリットに手を掛けようとするユウキの頭のてっぺんに拳骨を一発お見舞いする。
「ドコ拭いてんだよエロガキが! わかったからそれ貸せ、あとは自分でやるから」
タオルを奪い取ると、雑に体を拭く。ユウキの言うとおり、その体格はかなりがっしりしている。元々大柄なシャチ種の中でも珍しい二メートル超の長身に加え、冷たい水中での過酷な労働によって鍛えられた太い筋肉と適度な脂肪が恰幅をさらに良くしている。厳つい容姿はシャチ種の女性にはあまり人気は無かったが、男性やイルカ種にはなかなかうけが良かった。対してイルカ種の少年、ユウキはナガトと比べるとまるで巨人と小人だ。年齢を考えると平均やや下といった身長なのだが、ナガトとは頭三つ分くらいは違っている。Tシャツとハーフパンツから覗く灰色の皮膚に覆われた手足はまだまだ華奢で、幼さが見て取れる。
「それにしても、ドームの外にはあきれるほどの水があるってのに、わざわざプールで泳がないといけないとはなあ。こんな水たまりじゃあ俺の実力は発揮ないぜ」
禄に体も拭かないまま再びタオルを放り投げたナガトは、壁面に表示されたランキング表を口惜しそうに睨んだ。ランキングの一位にはヤツシマ=コウの文字が輝いている。ナガトは二位だがかなりの差を付けられていた。ナガト達が居るのは水面の遙か下、水深三〇〇〇メートルの海底ドームだ。海底を更に掘り下げて建造され、カーボンナノチューブを編み込んだセラミックス複合素材が、三〇〇気圧にも達する水圧から住民を護っている。ランキングはそのドームの一画にある小さな公共プールの利用者の順位を示したものだ。
「やっぱり、イルカ種に負けるのは悔しいの? シャチ種のプライドってヤツ?」
「いや、そんなんじゃない。こんなちっちゃなプールじゃ泳ぎにくいのは分かってるからな。体が水上に出たら遅くなるのは当たり前だろ?」
コウ本人に言えば「言い訳だね」と軽くいなされるに違いないが、不利なのは本当だ。筋力ではシャチ種が上回っているはずだが、推進力の要である尾びれが空中に出てしまってはいくら力強く漕いでも無駄だ。水深の浅いプールでは小柄なイルカ種の方が有利に決まっているだろうとナガトは年甲斐もなくふて腐れる。ふと横を見ると、ユウキが腕を組んでうんうん頷いているのが見えた。そして解説員のように語りはじめる。
「ナガトは泳ぎが、なんというか……雑? なんだよね、なんて言うか、水を受け入れずに戦っている感じ? いつもバシャバシャ水を跳ね飛ばしてて、流れを上手く掴めてないと思うんだよね、僕は。対してコウはスマートで、水と対話できているのが見てて分かるんだよ。まるで水が通り道を開いているかのようにスーっと泳ぐんだよね。そう、見ていて綺麗なんだ。あの技術は流石だよね。いい加減、コウにアドバイスを求めた方が良いんじゃない?」
「なに、専門家ぶってるんだよ。アイツはまあ、タイムだけは速いかもしれんな。ただ、これも所詮こんな人工環境でだけの話だ。あんなかしこまった泳ぎ、外に出たら通用しないぜ?」
しかめっ面をしてを睨むナガトに、ユウキは肩を竦めた。
「またそんなこと言って、ホントはコウの泳ぎ方、好きなくせに。この前、『綺麗だなあ』とか呟いてるの僕聞いたよ。どうせ『今夜はお前を快楽の海で泳がせてやるぜ』とか言ってるんでしょ?」
「エロ親父みたいな事いうんじゃねえ!」
ナガトはませた少年の額ににげんこつをもう一発お見舞いすると、ユウキが腰にぶら下げていた頭部端末をむしり取った。踵を返すと、巨体に見合った大きな尾びれを少し持ち上げて、更衣室へと向かう。そのすぐ後ろを、額をさすりながらユウキが追う。ユウキの尾びれはまだ持上げなくても歩行に支障はないようだった。
ナガトは歩きながら頭部端末のマイクロフォンを額に、骨伝導スピーカーを下あごに着け、網膜投影ディスプレイの位置を調整する。後頭部にある噴気孔からクリック音を発すると頭部端末が起動する。声紋認証のあと眼球の位置がスキャンされ、仮想ディスプレイがナガトの網膜に投影される。視野の左上に現れた仮想ディスプレイには数百件に上るメールの山と、十数件の不在着信がある事を示していた。その数にナガトはうんざりする。たった一時間休んだだけでこれだ。もうしばらくの間、不在のままにしておくよう頭部端末にクリック音で指示を与え、アルミ製の衣料カゴに置いた下着に手を掛ける。そのとき、何者かに後ろから抱きつかれ、ナガトはため息をついた。面倒くさそうに口を開く。
「ったく、なんなんだよユウキ。俺は公務で忙しいの」
「ねえねえ、最近コウとどうなの? 上手くやってるの? 冷たかったりしない?」
ナガトが振り向くと、ユウキはいつの間にか服を脱いでいた。ナガトの太ももに頬ずりしている。ちらりと見えた股間のスリットからは、性欲旺盛なブツの先端が顔を覗かせていた。珍しくタオルを持って出迎えに来たのはこれが目的だったかとナガトは嘆息する。
「さてはお前、コウに迫って断られたな?」
ボディタッチをやたらに繰り返すユウキを引きはがし、少し距離を取る。ただでさえ疲れ切っているというのに、子供の相手などまっぴらだ。
「なんか機嫌悪そうだったよ? ナガトがちゃんと相手しないからじゃない? もしかしてセックスレス?」
「アイツが機嫌良い時なんて滅多にないの、分かってんだろ? いつもより更に機嫌が悪かったんだとしたら、お前がしつこかったせいだ。にしても、なにか? お前が今こうやって俺に迫ってくるのは、ヤツの代わりにって事なんだな。代用品扱いにされたんじゃ、気分良くねーな」
そうぶっきらぼうに応えたナガトは、ユウキを振りほどいて下着に片脚を通す。
「いや、僕はそういうつもりじゃなくてさ……ええっと、ほら、ナガトってデカいじゃん? 僕にはコウくらいがちょうど良いからとかそう思ってさ。あー、もう! ねえねえ、ヤろうよ!」
「お前なあ……面倒くさくなったのか知らんが、その態度は何だよ。伸びるから離せって」
ユウキに引っ張られたせいですっかり伸びてしまった下着を見て、ナガトはやれやれと首を振る。この年齢の少年の性欲は成人男性とは比ぶべくもない。その気持ちは分からなくもないし、小憎たらしくはあるがユウキは控えめに言っても可愛らしい。成長途中の太ももは確かにそそられるし、まだ幼さの残るスリットから滴る先走りを見て、ナガトもまんざらではない気持ちにはなってきた。とはいえ、ユウキの歳でこういったことにのめり込むのはあまり褒められたものではない。ナガトも男性である以上、思春期の少年の抑えきれない性欲もよくわかる。ただ、自分はもっと抑制できていた。少なくともこんな風にはしたなく迫った事は決してない。そのときナガトの頭に思い浮かんだのは一人の親友だった。その親友の奔放さを思い出し、抑えきれないヤツも居るからなあとユウキを見る。ナガトの経験上、性欲の高まった人間を無理に抑えこもうとするととんでもない行動に出る場合が多い。何か事件を起こされてはたまらない。
「ああ、わかったわかった。分かったから、それ以上俺の下着を引っ張るのは止めろ」
「え、いいの! じゃあ、ちょっと待ってて。ローション持ってくる!」
そう言って走り出そうとするユウキの尾びれをひょいと掴む。小さな足が宙を駆け、地面に倒れる寸前でナガトが抱きとめる。
「え、なに?」
「お前、もう我慢できないんだろ?」
ユウキの体をくるりとひっくり返して仰向けに寝かせる。そのまま有無を言わさずスリットに指を入れて、中に収まる幼根に引っかけた。指を抜くと粘液にまみれたそれが元気よくプルンと飛び出てくる。
「あんっ! まだ準備が……」
「こんなに堅くして準備も何もないだろ?」
抵抗するユウキだったが、ナガトが口にも指を突っ込むと大人しくそれをしゃぶり始める。ローションがいらないほど先走りでどろどろになったモノを手のひらに包み込み、力を加減しながらできる限り強く素早く扱く。ナガトはさっさと終わらせるつもりだった。焦らすつもりなど全くなく、容赦なく扱く。溜まりに溜まっているであろうユウキがそれに耐えられるはずもない。腰を引いて逃れようとするが、ナガトは逃がすつもりは無かった。ナガトには他にやらなければならない事が山積している。
「んんっ! ちょ、ナガト、だめ! そんなにしたらイっちゃうから! もうちょっとゆっく……んっ、あっ!」
ユウキの体に力が入るのを感じる。下っ腹に力を込めて少しでも絶頂に達するまでの時間を先延ばしにしようと頑張っているようだ。ナガトはそんな懸命な努力を一考だにせず、さらに速度を速めた。ユウキは抵抗むなしく体をびくんと震わせると、幼根の先端から絶頂を吐き出す。勢いよく飛び出した精液がナガトの顔を汚す。それはずいぶんと薄い。溜まっていたと思っていたのは間違いだったようだ。
「はぁ、はぁ、もうちょっと長く楽しみたかったのに! いままでずっと我慢してたんだよ!」
ユウキは肩で息をしながら、ナガトを睨んでくる。量と薄さから考えると、せいぜい一日我慢したかどうかといった程度だろう。若さを考えると半日程度かもしれない。
「ちゃんとやりたかったら、お前も相手みつけろよ。お前なら結構モテるだろ? 大体な、こういうのは好きなヤツとやるもんだ。俺はお前の養育者だが、コッチは自分で育てろ」
「同い年の奴らは乱暴だからキライ。大体へたくそだし痛いの」
「なに、年頃の少女みたいなこと言ってんだ。さあ、これですっきりしたんだし、シャワー浴びに行くぞ。まったく、顔射しやがって」
ナガトは手元のタオルで粘つく液体を拭うと、膝を着いていて立ち上がろうとする。そのとき、今までぐったりしていたユウキが突然飛び上がったかと思うと、ナガトの胸に飛びついてくる。不意を突かれたナガトはバランスを崩して床に手をつく。ぬるっとした粘液に手が滑り、そのまま後ろに倒れてしまった。その粘液は先ほどユウキの出した精液だ。スリットに違和感を覚えて頭を上げると、ユウキがナガトの股間に顔を埋めているのがみえた。舌を使ってナガトのスリットに侵入しようとしているようだ。
「おい、ユウキ。お前なにしてんだ?」
ナガトがあきれ声をだすと、股間に顔を埋めていた少年が顔を上げてにやりと笑う。
「お返しだよ。お・か・え・し!」
脱力したナガトはしばらくそのまま放っておく事にした。ユウキは舌だけではなく、指も使ってスリットの中に納められたモノを外に引きずり出そうと必死なようだ。その手つきは洗練とはほど遠く、ただ無造作に表面を擦るだけという稚拙なものだったが、それでも刺激には違いない。下腹部からじんわりとした快感がわき上がってくる。
スリットから先端が出る程度には膨張したソレを見て、やる気ありと判断したのか、ユウキがナガトの顔に尻を向け、ナガトの顔を挟んで跨がる。そのまま精液滴る幼根を口吻に押しつけてくる。プールサイドに漂う塩素臭によく似た、青臭い匂いが鼻をつく。
「ねえねえ、僕まだ出来るよ! ナガトも溜まってるんでしょ?」
「ったく……」
一発出せば収まるだろうというナガトの思惑は外れ、それなりに相手をしないと解放してくれなさそうだ。コウからよっぽど冷たい扱いを受けたのかもしれない。それに、ナガトが溜まっているのは事実だった。少しはつきあってやるかとナガトは思い直して午後のスケジュールを確認する。あと三十分程度ならなんとかなるだろう。
ユウキはナガトが乗ってきたことを察したのか、ナガトのモノを一気に根元まで咥え、貪りだす。いったい何処で覚えたのか、じゅぶじゅぶと大きな音を立てて激しくピストンし始めた。ナガトはなかなか上手いじゃないかと心中思い、ユウキの幼根を扱く。若いだけあって、すぐにはち切れんばかりに堅くなった肉棒がぴくぴくと小刻みに震える。先端を指の腹で擦るとユウキが声を上げ、腰を引く。またイきそうになっているのだろう。ナガトの方はというと、まだまだ達するにはほど遠い。今にも達しそうなユウキのモノから手を放すと、自らの腰を浮かせてユウキの口に自分のモノを突っ込む。
「俺を気持ちよくしてくれるんじゃ無かったのか? 次、お前がイったらそれで終わりだぞ?」
その言葉に対抗してか、ユウキの舌の動きが激しくなる。中等生に対して性欲をぶつけるほんの少しの罪悪感も、ようやく気分が乗ってきたナガトにとっては絶好のスパイスだった。ユウキが首を上下させるのに合わせ、腰を振る。熱さが局部から下腹部全体に広がり、射精感が高まってくる。もうすぐで達しようとしたとき、耳障りな高い音とともに緊急メッセージを受信したというアイコンが眼前に浮かぶ。オフライン設定でも電波が通じてさえいれば割り込みを掛けて強制受信される類いのメッセージだ。当然、緊急度は高く、たいていは悪い知らせだ。こんな時にと思いつつ、奉仕を続けるユウキの肩に手をかける。
「すまん、ユウキ。緊急事態のようだ」
「えーっ! もうちょっとだったのに!」
ユウキが灰色の口吻からよだれと先走りでてかてかと光る男根を吐き出し、名残惜しそうに見つめる。
「緊急だから仕方ないだろ。今夜はコウと二人で相手してやるから我慢しろ」
「ちぇっ!」
ふてくされるユウキの頭をぽんぽんと叩きながら、クリック音を立ててメッセージを開く。
――訓練船遭難の可能性アリ
たった一文のメッセージにナガトの表情が険しくなる。その深刻なナガトの様子を察したのか、すっかり静かになったユウキがラックからタオルを手にしてナガトに差し出す。ナガトは汚れた口吻をタオルで拭いながら、やれやれと立ち上がった。
手早く服を着たナガトはスポーツセンターを後にし、エレベータホールへと小走りで向かう。ナガトが今いるのは海底ドームのど真ん中、セントラルタワーと呼ばれる行政の中心だ。公共プールはタワーの中ほどの階にある。タワーの高さは八〇〇メートルにも達し、ドームの底辺から最上層、ドームと海底を隔てる外壁にまで伸びていた。ナガトはタワー上層へと向かうエレベータを待ちながら、秘書のマサヒトとの間に回線を開く。オンラインになるとすぐにマサヒトから通話接続が要求される。承諾すると端末から合成された秘書の声が聞こえてきた。
「ナガトさん、お休み中すみません」
頭部端末によって合成されたその声は、口調こそマサヒトによく似ているものの、抑揚に乏しく平坦だ。合成音が再生されると言う事はつまり、秘匿性の高い内容を伝えたいということを意味していた。
この星で暮らしているのは、原生人類をベースに、人類の生まれ故郷である地球に生息している海生哺乳類の形質を取り入れた新種人類であり、シャチ種、イルカ種の二種に分かれている。この新しい人類は二つの発話器官を持っていた。一つは原種人類と同じ、肺からの呼気で声帯を振動させる方法だ。日常生活ではこちらの方法がもっぱら使用される。もう一つは後頭部にある噴気孔を使ったクリック音だ。この噴気孔は空気を溜められる気嚢に繋がっており、気嚢は肺からは完全に隔離されている。輸入元の海生哺乳類とは異なり、純粋にクリック音を出すためだけの器官となっている。気嚢は強力な筋肉に囲まれ、高い圧力をかけて空気を吐く。この空気が噴気孔に達する途中でクリック音を発生させるのだ。クリック音は海生哺乳類も持っていたメロンと呼ばれる増幅器官を通って額から発せられる。声帯から発せられる声よりずっと高音で、超音波と呼ばれる領域にまで達する。用途の一つは海生哺乳類と同じく水中で障害物を発見するエコロケーションだが、日常生活では超音波が空気中を伝わりにくくすぐ減衰してしまうという特性を生かし、頭部端末の操作に用いられている。頭部端末への指示は額に付けられたマイクロフォンから行い、頭部端末からの出力は下あごに取り付けた骨伝導スピーカーから受け取る。
もう一つの用途がクリック音での会話だ。水中での会話にはこちらが利用されるし、地上でも訓練次第で指向性の高い音波を作り出せるので周囲に聞かれたくない会話をするために便利だ。普通の会話の方が話す側にとっても聞く側にとっても楽なため日常生活で使われる事はあまりないが、いわゆる〝内緒話〟をしたいときにはクリック音に限る。これは頭部端末を介して会話するときも同じだ。慎重に発せば音漏れを最小限に留める事が出来る。ただ、クリック音での会話には音の細部が重要になるのだが、頭部端末の骨伝導スピーカーではその微妙なニュアンスを伝えられない。そのため、一度データに変換してから送信し、普通の声に再合成するという形をとる。〝普通の声〟は音質が悪くてもクリック音ほど細部の正確性に敏感ではないため、正しく伝わる。骨伝導スピーカーはほとんど外に音を漏らす事が無いため、盗み聞きされる心配はほぼない。
つまり合成音が聞こえてくるということは、会話を秘密にしたいという意図があるのだった。マサヒトに合わせ、ナガトもクリック音で答える。
『状況を教えてくれ。訓練船が遭難したとはどういうことだ?』
『概要だけ説明しますね。今日14時25分頃、ドーム東側一〇〇キロメートルに位置する旧熱水取り込み口の清掃訓練に出ていた教育局所属訓練船、カコが動力を喪失し、着底したまま動けなくなりました。幸いにも通信は途絶えておらず、訓練船に乗船していた乗員イルカ種六名も全員無事です。なお、動力を喪失した原因は不明で、回復の見込みも立っていません』
ナガトは死傷者が出ていないということにひとまず安堵し、胸を撫で下ろす。イルカ種に対するドーム外作業訓練は、ナガトが半ば強引に通した法案のひとつだった。上院では強い反対を受けたにも関わらず、考えを同じくする同僚や兄キミヤスの協力もあってぎりぎり議会を通過させることができた。ナガトの意図としては、シャチ種に限定されている仕事をイルカ種向けに解放する事でゆくゆくは権利拡大に繋げたいというものだったが、表向きはシャチ種に向かない狭い場所での作業員確保と負担の共有という形になっている。現在はドームの外に出る職業は完全にシャチ種だけのものになっているが、海溝での資源調査や小規模施設のメンテナンスなど、実は小柄なイルカ種の方が向いている作業は多い。そういった作業は危険を伴う事も多く、現場では人手の豊富なイルカ種にも負担させられないかという意見も度々出ていた。それでもまだ訓練するだけで、実際に職に就かせるわけではない。現場やイルカ種のガス抜きとしても使えるということを匂わしてなんとかねじ込んだのが実情だった。
訓練を施す人物の選定やプロセスに関して紆余曲折を経て、いよいよ訓練は開始された。だが、訓練自体はドーム内の教育一般を管轄する教育局が訓練を担当することになったため、ナガトは直接関与出来ないでいた。本音を言えばナガトの出身である熱源管理局に教育を担当させたかった。熱源管理局はナガトの支持母体であるだけでなく、[[rb:主親>しゅしん]]にあたる母ナツメが局長を勤めているということもあって何かと融通が効くからだ。しかし、熱源管理局での訓練実施をごり押しすれば利益誘導と取られかねない。それに、教育局がイルカ種の権利拡大に対し、一応は中立的な立ち位置を取っているということもあってナガトは妥協するしかなかった。
このようにしてなんとか訓練は始まったのだが、このドームの支配者であるシャチ種指導者層はシャチ種の仕事にイルカ種が入り込んでくる事に反対しているのは変わらなかった。この状況で訓練船にもしなにか事故でもあれば、教育局は政策立案者であるナガトに全ての責任を押しつけ、議会もそれ見た事かという空気になるのは間違いない。そしてそれはイルカ種の権利拡大と自立への道を訴えてきたナガトの立場を一気に悪くする。積極的に開放路線に走るほとんど唯一の上院議員であるナガトの立場が悪くなると言うことはそのものつまり、イルカ種の権利拡大の機会が失われることに直結するのだった。そしてなにより、自分の政策によって貴重な命が失われるのを黙ってみているわけにはいけなかった。もし緊急事態であればナガト自ら救助に向かうつもりだ。
『ひとまず大事にならなくて良かった。救援は出ているのか?』
『残念ながらまだ出ていないようです』
『なぜだ? 教育局はイルカ種の訓練について特に賛成も反対もしていなかったはずだが。そもそも、貴重な大気圧訓練船を失うわけにもいかないだろう』
エレベータに乗り込み、タッチパネルの前で少しためらったあと、執務室のある上層フロアへ直接向かうことにする。途中で自宅に寄ってスーツに着替えることも考えたが、何かあったときに動きやすいラフな格好の方が良い。
『どうやら警備局が渋ったようですね。教育局はあまりドーム外で動ける船を持っていないので、警備局に救助を要請したのでしょう』
『で、断られたと? 教育局は抗議しなかったのか?』
『そこまでは分かりません。ただ、教育局の上層部にも何らかの圧力が掛けられた可能性はありますね』
教育局はあくまでドームの内側での教育を目的とした部門だ。比較的大型の耐圧殻を持つ大気圧式訓練船の救助を行うのは荷が重かったとも考えられるが、イルカ種六名の命はまだしも、船を失うのは避けたいはずだ。普通に考えれば警備局に必死に救出を依頼するはずで、簡単に諦めるとは思えなかった。にもかかわらずまだ放置しているとすれば、なんらかの圧力がかかったと考えるのが普通だった。ナガトはふと気になって頭部端末に現在時刻を表示させる。15時45分だった。遭難からまだ一時間とちょっとしか経っていない。もし教育局に圧力がかかったのだとすると、正規ルートではこんな短時間でナガトに情報が入ってくるとは思えない。早くて半日、下手をすれば丸一日はかかるだろう。それがこんなに早く入ってくると言う事はアイツが流してくれたのだろう。
『この情報、お前の兄貴からか?』
『ええ。どうやら、警備局だけではなく通信局にも救助の要請があったようで。もちろん、通信局はそんな余裕もなければ、知ったことではないという反応だったようでしたが……。兄はそれを面白がってか情報を流してくれました』
『そうか。お前の兄貴もあの通信局で働くだなんて馬鹿なヤツだ。まあ、そのおかげで助かってはいるんだが』
イルカ種の地位向上を目指すナガト達に対し、警備局や通信局はあまりいい顔をしていない。ドーム内外の治安維持を管轄する警備局、ドーム内外の情報流通を管理支配する通信局にはシャチ種のトップエリートが多く属している。ドームの外で仕事するのはシャチ種の誇りであり、このドームを支えているのは自分たちだという自負がある。そういう事情もあり、イルカ種をドームの外に出す今回の訓練には猛反発していた。両局出身の議員もナガトが出す法案にはいい顔をしていない。その筆頭はこのドームのトップ、知事の座にあるヨシエダ=キミトだった。キミトは通信局出身であり、シャチ種が絶対的な支配者層として君臨するすることがドームの維持発展に寄与するという伝統的な考えの信奉者である。つまり、シャチ種のエリートたる通信局がイルカ種を助けるなど言語道断ということだ。秘書マサヒトの兄であるヨシヒトは、そんな通信局に勤務しているものの過去のいきさつもあってナガトの数少ない親友の一人だった。ときおり貴重な情報を流してくれる。
一方の警備局だが、こちら出身の議員も一部を除いて知事と同じ会派に属しているのは一緒だ。内部では警備局と通信局の間にライバル意識があるのは間違いないが、ヘルプが期待出来ないという点では同じだ。教育局はというと中立的な立場と言えば聞こえが良いが、ようは有力者が居ないと言うだけの話だった。もしイルカ種への訓練に反対する議員のだれかから圧力を掛けられれば自局に多少損害が出そうでも素直に従うしかない。熱源管理局もドームの外で作業し、局員のほぼ全てがシャチ種で構成されるという点では同じだが、メインの仕事が土木作業なため警備局や通信局からはずいぶんと下に見られている。彼らに対する反発心もあってか、エリート意識はほとんどなく、イルカ種に対しても開放的だ。ナガトの法案も熱源管理局からの進言を受けての提出になっている。
『あと二分で執務室に着く。続きはそこで聞かせてくれ』
エレベータの扉が開き、大理石で出来た廊下を急ぐ。大理石風ではなく、本物の大理石だ。この星ではとんでもなく高額な値がつく。左右に並んだドアにはめ込まれたガラスに映るTシャツに短パンというラフな格好の自分を見て、もし議長や知事にでも見つかったらうるさく注意されるだろうなとナガトは思った。
幸い誰とも遭遇せずに自分の執務室に着いたナガトは、早速詳細を聞き出そうとマサヒトの名を呼んだ。はーいという声変わり前の少年のような高い声と共に、奥の給湯室からコーヒーカップを手にしたマサヒトが顔を覗かせ、もう少し待ってくださいと言ってすぐに引っ込む。ナガトより3歳年下のマサヒトはシャチ種ではあるものの体つきは小柄で、ナガトより一回り以上も小さい。いままでの人生でデスクワーク以外はほとんどしたことがないらしく、背丈も平均より低く、華奢の一歩手前といった体型をしていた。時には中等生にさえ間違われるという外見に似合った可愛らしい声に、ナガトはついついにやけてしまう。本人はそれが気にくわないらしく、週に何度も「いちおう私、成人男性ですが!」と受話器を片手に声を荒げているシーンを目の当たりにしていた。怒ったその姿もまた可愛らしいのは言うまでもない。
数刻後、菱形のデスク脇に腰を下ろしたナガトの前にアイスコーヒーが置かれた。マサヒトは自分用にアイスミルクティーを持ってきていた。
「相変らずすごいな」
みるみるかさを減らしてゆくシロップを見て、ナガトは呆れる。マサヒトは「そうですか?」と不思議そうに首を傾げただけだった。たっぷりのシロップが注がれたミルクティーを一口飲み、マサヒトが状況を話し始める。
マサヒトによると、イルカ種の乗員は水中呼吸器の取り扱いになれていないこともあり、船内が大気圧に保たれる〝大気圧訓練船〟カコで清掃訓練に向かったらしい。訓練内容は熱源管理局に入った新人職員が研修で体験する程度の簡単なものだ。ただ、簡単なのは新入職員がクリック音での会話はお手の物で、生身でドームの外に出てエコロケーションによる自由遊泳をした経験があり、水中呼吸器の取り扱いに慣れているシャチ種だからだ。彼らならばほぼ骨組みだけの開放式の小型作業艇に乗り込めば良い。小型で軽く、取り回しが良いため操船難度は低い。そういった〝基本〟が身についていないイルカ種六名は、三〇〇気圧もの高水圧に耐える耐圧殻を持ったカコを使うしかなかったようだ。カコは開放式の作業艇に比べると大型で、操船が難しく周囲の状況も視認しにくい。それに、万が一耐圧殻が破損すれば彼らは溺れてしまう。ナガトが一番に心配したのは耐圧殻へのダメージだ。自己診断システムによると耐圧殻は無傷で変形や浸水もないらしい。生命維持に必要なのは酸素残量と二酸化炭素の除去、それに水と食料だが、電気がある限り空気は問題なく、水も濾過装置がある。食料も数日分は搭載していたようだ。マサヒトの話を聞く限りではそれほど緊急性は高くないとも思える。ただ、救助船が出せない以上、楽観視はできない。
「一体、教育局はどうやって対処しようと考えてるんだ? いくら警備局や通信局に拒否されたとはいっても、放っておけるはずはないだろ? やつらも訓練船を失うわけにはいかないと考えてるはずだ。乗員の安否は心配してないだろうがな」
ナガトは苦々しい思いでそう口にする。もし船ごと座礁したのではなく、船外活動中の乗務員が行方不明になったのだったら、教育局は容赦なくその乗務員を見捨てるだろう。政治的には中立を表明している部局でもそうなのだ。それくらい、イルカ種の存在は軽く見られているのが実情だった。ナガトは人道的視点からだけではなく、ドームの将来を考えるとそれではいけないと思っていた。
「そうですね、良い手が無いというのが現実ではないでしょうか。今回の訓練船が開放式ではなく大気圧式だったことが仇となってますね。開放式であれば乗員はなにも特別なことはせずに船外に出られるため、乗務員のみを救助して後からゆっくり対処することも出来ますが、大気圧式の場合はそうはいきませんから」
マサヒトはそう言うとシロップの割合が2割にも達しているであろうミルクティーを美味しそうに啜る。開放式の船は耐圧殻を持っておらず、乗員は水中で過ごすことになる。そのままでは呼吸が出来ないため、水中呼吸器を身につける必要があるが、船外に出るのが容易なため、ドーム外で作業するシャチ種達はほぼ全てこの開放式の船を使っている。開放式の船舶は軽くて扱いやすく、操船が簡単でなにより安い。対して大気圧式は耐圧殻で乗員を保護することで一気圧の普通の大気で呼吸できる環境を保つ。こちらは水中呼吸器という扱いに慣れが必要な器具を使わなくて良いというのが利点ではあるが、船外へは基本的に出ることが出来ない。訓練船にはそもそもエアロックが無いのだ。例えエアロックが備え付けられてあったとしても、水中呼吸器を使えなければ船外に出るのは容易ではない。呼吸用の空気も水圧以上に圧縮すれば普通に呼吸出来るが、酸素中毒を避けるために酸素以外のヘリウムや窒素、水素と合わせて混合ガスにする必要がある。その場合、血中に溶け込んだガスが潜水病を引き起こす可能性があり、加減圧に時間がかかるうえ、そのような高圧空気で呼吸して害が無いか誰も試した事が無かった。他方、高濃度の酸素を溶かした溶剤を使って呼吸する水中呼吸器ではこの問題は発生しない。大気圧式の船は特別な訓練が不要で、耐圧殻の内側ではドームと同じ機器が使えるため、調査や観測を目的とする場合は適している。だが、作業船には不向きなのだ。大気圧式では清掃作業をやるにも現場にかなり近づいてから遠隔アームを使う必要が出る。本来であれば、イルカ種にきちんと訓練を施し、開放式の船を使えるようになってから実地訓練を行うべきだった。にもかかわらず教育局がいきなり訓練員をドーム外に放り出したのは、まともに訓練する気がないからだろう。
「座礁した原因は分かっているのか?」
「まだ確定はできていません。ただ、後退運動をしている際にいきなりスクリューが停止したと乗務員は言っているようですね。進行方向に注意していなかったせいで推進器を岩か何かにぶつけ、破損させたのではないかと教育局は予想しているようです、ただ少し気になることが……」
「なんだ?」
マサヒトの視線が宙を彷徨う。網膜投影ディスプレイで情報を再確認しているのだ。
「自己診断システムは確かに推進器――スクリューが動作不能というエラーを吐いているんですが、そのスクリューに接続された動力源の動作に関しては何のワーニングも出ていないようなんです。つまり、プロペラシャフトは何の問題も無く動作しているとなっています」
首を傾げてナガトはその意味について考える。訓練船に搭載された自己診断システムは完璧なものではなく、あくまでセンサがとらえた数値が正常な範囲にあるかどうかを確認する程度のことしかできない。つまり、「動かないので壊れたんだろう」程度しか分からないということだ。スクリューが動作不良になるほど損傷を受けたとすれば、スクリューと動力をつなぐプロペラシャフトも無事とはなかなか考えにくい。回転軸がぶれているといった程度の警告は出ないとおかしい。
「つまり、自己診断システムがおかしい可能性があるってことか?」
「その可能性もあります。本当はもっとダメージが大きいにもかかわらずシステムが把握できていないのか、その逆でシステムが本来は起きていない異常を報告しているのか……」
「システムに異常があるとなると、耐圧殻に問題がないというのも信用していいものか怪しくなるな。推進系と耐圧殻の自己診断システムは分離されているようだが、安心はできない。加速度センサの記録とソナーのデータからダメージを推測できないのか? あとは乗務員が音を聞いているとか?」
「明確にぶつかったという音は聞いていないと乗務員は言っているようです。おかしな話ですよね……。あと、各種記録なんですが、ログを記録しているはずの航行監視警告システムが落とされていたようでデータが取れないんです」
航行監視警告システムは推進系――動力源であるバッテリとモーター、推進器であるスクリューとその間をつなぐシャフトをあわせたもの――や深度計、加速度計、ソナーを監視し、衝突の危険がある場合は警告を発して自動回避するシステムだ。各種データを記録しているのもこのシステムで、これが動いていなければデータは取れない。
「あと、どうも乗務員は搭載ソナーから得られる情報ではなく、船外エコロケーションシステムのみで操船しろという指示があったらしくて……。教育局によるとそれは訓練のためだと言っていますが、どうも腑に落ちません。本来であれば搭載ソナーによる操船から船外エコロケーションシステムに切り替えても警告システムは稼働させていなければなりませんよね? 両者は全く別物なんですから。にもかかわらず、乗務員が勘違いして両方とも切ってしまったという言い分です」
「うーむ……できる限り好意的に解釈するなら、乗務員の落ち度でシステムを入れ忘れ、教育局がその確認を怠った。悪く解釈すれば教育局が事故を望んでわざと訂正しなかったってところか。教育局が船を失うリスクを冒してまで俺の邪魔をしたいのかは疑問だが……」
ナガトが大きくため息をつく。ドーム外は深海のため、太陽の光はまったく届かない暗黒の世界だ。可視光線を含む電磁波は海水に阻まれて遠くまで届かない。そのため、周囲の状況を知るためにはもっぱらソナーが使われる。訓練船を含め、ドームで使用される船舶にはすべてソナーが搭載されており、それらと加速度センサなどを統合して航行監視警告システムが集中管理することで安全性を保っている。ただ、シャチ種はもちろん、イルカ種もこのソナーと同じ原理で自分の位置と周囲の状況を感知するエコロケーションと呼ばれる感覚を持っている。つまり、噴気孔で超音波を発生させてメロン器官を通して額から発射し、反響音を下あごを通じて内耳で受けて周囲の障害物を感知するという機能だ。船によってはこのエコロケーションを船体レベルまで拡張するために、音波増幅装置と集音装置を操舵者に直結できるようになっている。これによって操舵者はまるで生身で泳いでいるかのように周囲の状況を把握し、操船出来る。船に搭載されたソナーシステムを利用しようとするとどうしてもディスプレイを通じて状況を確認することになる。それでは平面的な情報しか得られず、距離感を掴むのが難しいということもあってベテランの操舵者はエコロケーションを使うことを好む。ただし、これはあくまでも熟練した操舵者にのみ言えることであり、シャチ種でも慣れていなければエコロケーションでの操船には苦労するのが普通だ。警告システムが処理してくれた結果を見た方が遥かに分かりやすい。ましてやドーム外にでた経験がまずなく、エコロケーションの感度もシャチ種よりも劣るイルカ種がうまく扱えるはずもない。加えて、ベテランのシャチ種操舵者でさえ、確認や自動航行のために航行監視警告システムは落とさないのが普通だ。そもそも船外エコロケーションシステムはあくまで操船には警告システムの提供するソナー解析結果ではなく、自分の感覚を使うということだ。船の安全を確保する警告システムとは全く目的が異なっている。訓練船乗務員が警告システムを落とすのは遭難しろと言っているのに等しい。確かに素人から見れば警告システム=ソナーディスプレイと勘違いしないとも言い切れないが、少しでも教育を受けていれば分かるはずだ。
アイスコーヒーのお替りを頼み、ナガトは対策を考える。マサヒトが言った通り、怪しい点はたくさんあるが、現状では緊急事態とは言いにくく、上院議員という立場のナガトが教育局のシゴトに口を出すのは望ましくない。ナガトが心配しすぎているだけで、もしかしたら教育局が修理のための船を手配済みかもしれない。もしくはスクリューの不良が自己診断システムの誤認で、すぐにでも再稼働するかもしれない。ただ、どうも嫌な予感がする。イルカ種関連の事案は敵が多く、被害妄想に近い思考パターンになっているのはたしかだが、ここは自分の勘を信じることにしようとナガトは決心する。これは仕組まれた事故だ。そうとなれば迷って立ち止まるのは自分のスタイルではない。頭部端末から主親であるナツメの連絡先を検索し、メッセージを送る。
一度自宅へと戻ったナガトは、物で溢れかえる物置から耐圧耐塩処理が行われた頭部端末と水中呼吸器を探し出し、無造作に鞄へ放り込む。玄関へと向かう途中、尾びれが何かに当たり、どすんと音を立てた。続いてガラスが割れる音が聞こる。ナガトは振り返りもせずに家の外に出る。こういう時は時間が勝負だ。
自宅を後にしたナガトは、船が係留されているドックへと向かった。目的地のドックはセントラルタワーが海底と接するところ、つまりタワー屋上にある。ドームは海底の更に下を掘って建造されているため、ドームの天辺が海底となるのだ。ドック直通のエレベータを使えばすぐだ。ナガトが熱源管理局時代によく使っていた小型ドックはドーム外周部にあり、渋滞を縫って車を走らせるのに苦労したものだった。なにしろドーム内は複雑で、渋滞を避けるように走っていると、いつの間にか知らない場所に行き着いてしまうのだ。
ナガトはタワー上部へと向かうエレベータを待つ間、訓練船が座礁している地域の地形図を端末にダウンロードする。ひたすら平坦な地形が広がるドーム周辺の海底平原よりは複雑な地形はしているが、ところどころに岩が突き出しているといった程度だ。それほど危険な場所とは思えない。むしろ適度に障害物があるおかげで現在位置の特定が容易で、事故は起きにくいという印象だった。いくらイルカ種がエコロケーションに慣れていないとはいえ、この程度は避けられるだろう。それこそわざと岩にぶつからない限り、スクリューが破損するほどの大事故にはならない。ただ、もし強い海流があれば衝突の可能性も高まる。ナガトが海流のデータと照らし合わせようとしたとき、エレベータの到着を知らせるアラームが鳴った。データ解析に夢中になっていたナガトはエレベータの行先も確認せずに乗り込む。
ナガトはその後、散々迷った挙句ようやくドックへとたどり着いた。最初に乗ったエレベータはドックがある棟へは通じておらず、気が付くとセントラルタワーの外に居たのだ。そこから再度タワーに戻るまでに数十分、途中で警備員に道を聞くも、正解のエレベータは見つけられずに、端末のナビ機能を使ってやっとたどり着いたのだった。大仰な扉に書かれた〝熱源管理局セントラルドック〟の文字にナガトはほっと胸をなでおろす。海底であればまず道に迷う事などないが、建物の多いところは苦手だった。
扉を潜り抜け、関係者用と書かれたゲートへと向かう。センサーがナガトをスキャンし、生体データと照合する。ナガトの生体情報がデータベースと一致することが確認され、シュッとゲートが開いた。そのまま掘削船へ向かおうとしたとき、受付のシャチ種の女性から声をかけられた。
「ナガトさん、久しぶりです。相変わらず忙しそうですね」
「おお、久しぶり。元気でやっているようだな」
ナガトはそう応えながら局員時代の記憶をたどる。確か、当時は事務員をやっていたのではなかろうか。
「そうそう、ナガトさん。お待ちの方がいらっしゃいますよ」
その言葉にナガトは眉間に皺を寄せた。
ゲスト用の更衣室に入ると、その人物が立っていた。ナガトの姿を見たユウキが、隠れるようにその人物の後ろへと回る。その人物はユウキと同じイルカ種で、美しいブルーグレーの肌を持っている。体格はイルカ種としては大きく、マサヒトと同じくらいの背丈がある。ナガトと違ってスリムなのだが態度が大きい。威圧感で言えば、マサヒトとは比べものにならない。その人物がまるでかばうようにユウキの前に立つ。
「ユウキ、こいつになんか言ったのか? 黙っとけって言っただろう!」
「そんな言い方はないでしょ、ナガト。ユウキはキミが心配だからと私に伝えてくれたのに」
頭を撫でられながらユウキが頷く。ナガトはナツメに掘削船を使わしてくれと連絡を入れた後、遅くなるから夕食は不要だとユウキに伝えた。今考えれば、行き先を伝えたのが失敗だった。この人物は、ヤツシマ=コウという名でナガトと共にユウキの保護者をやっている。そしてナガトの恋人でもあった。恋人が自分の仕事に口を出してくるのはあまいいい気はしない。そしてなにより小うるさく言われるのが嫌だった。
「コウ、ユウキに何を言われたのか知らんが、この件は俺の仕事だ。それにお前、仕事中じゃないのか?」
「仕事の方はご心配なく。部下がしっかりしてるし、私が居なくても大丈夫だよ。それに、ユウキだけじゃなくて、キミの秘書さんとナツメさんからもヘルプの要請があったんだからとても断るわけにはいかないよ」
その言葉を聞いてナガトはがっくりと肩を落とす。自分はそんなにも信頼が無いのだろうか。顔を上げると、ユウキが舌を出してアッカンベーをしていた。
「ユウキ、お前なあ!」
「だって、家の中が酷いことになってたんだよ! お気に入りのコップも割れちゃってたし! それにさ、ここまで来るのに時間かかりすぎだし、やっぱコウが居た方がいいよ!」
走って逃げ出すユウキを追いかけようとしたところでコウに落ち着けと肩を掴まれる。今はそれどころじゃないだろうという的確な指摘に、ナガトは情けなさも相まって再度肩を落とした。
「みんなキミを心配しているんだよ、ナガト。ちゃんと議会を通さずに局の船を徴発する意味、分かってる? 一歩間違えれば失職なんだよ?」
やはりそうくるかと思い、ナガトは顔をしかめる。本来、立法府の人間であるナガトが行政府の仕事に直接介入するのは望ましくない。明確に禁止されているわけではないが、そういう権限があるとも法律には記されてはないのだ。勝手な行為はほぼ確実に政敵に利用はされるだろう。ただ、そんなことを今更気にするナガトでは無かった。ナガトは青灰色の肌を持つ恋人に向き直ると、腰に手を当てて胸を張った。
「動いても動かなくてもどうせリスクはあるんだ。それならやって後悔する方がよっぽど良いだろ? ま、俺の辞書に後悔の文字は無いがな!」
「それを言うなら『不可能』でしょうが。後悔はまだ良いとして、反省はして欲しいんだけど」
コウがやれやれと頭を振る。
「ま、キミがそう言うだろうとは予想していたよ。この事故はどこか怪しいしのは私も同意するし、救助に向かうのは反対はしない。ただ、単独で動くのは危険だね。キミは自分の立場も、どれだけ軽はずみな行動をしているのかも分かっていない。職を失ったらユウキはどうするのさ」
「そのときはお前に養ってもらうさ。そんときはよろしく!」
ナガトはコウの肩をぽんとたたき、ロッカーへと走り出した。自分がイマイチ信用されていないのは残念だが、気にしても仕方がない。それに最優先は動けない訓練船で助けを待つ乗務員の救出だ。
ナガトは保護と保温を兼ねたウェットスーツを着込み、頭部端末を身につける。横を見ると、コウもスーツの着用を終えていた。シャチ種、イルカ種ともに皮膚は原生人類より分厚く、脂肪も付いているため生身でも十分にドーム外に適応出来る能力はあった。それでもウェットスーツを着るのは怪我防止と保温が目的だった。短時間ならまだしも、長時間冷たい海水に暴露される事になる場合はウェットスーツを身につけた場合とそうじゃない場合で疲労度は全く異なる。なかでも下手をすれば数日単位で作業する熱源管理局に仕立てられたウェットスーツは保温性、強度共に通常のウェットスーツよりも断然優れていた。ただ、その代償としてかなり分厚く、伸びも悪い。よほど慣れていない限り一人で着用するのは難しい。にもかかわらずコウは、ドーム外へ出る機会などあまり無いだろうに平然とウェットスーツを着ていた。手早くセルフチェックを続ける恋人を感心しながら見つめていると、目が合った。
「なに、じっと見つめて。ウェットスーツ姿に興奮でもした?」
「いや、ずいぶん慣れてるなと思ってな」
ナガトはそう答えながらもその言葉につい意識してしまう。コウのすらっとした身体にウェットスーツがぴったりと張り付き、ほんのりと浮き上がる筋肉は裸体のときとはまた違った艶めかしさを感じる。その視線に気が付いたのか、コウは尻を突き出して引き締まった双丘を見せつけてきた。思わず唾を飲んだが、今はそれどころではない。救助が最優先だ。ナガトはコウを無視し、網膜ディスプレイの位置を微調整する。誘いに乗ってこないナガトに、コウは少し残念そうな表情を見せる。ただ、コウに乗ったところでどうせ肩すかしに会うのは目に見えていた。コイツは真面目そうに見えて意地が悪いのだ。
「そりゃあナガトに比べると少ないけどね。たまには練習くらいしてるよ。あ、もしかして心配してくれてる?」
「足手まといにならないかって意味なら心配してる」
ナガトはぶっきらぼうに応えた。ほんの少し位なら心配しているが、そんなことを知られたらまた茶化される。それに、悔しいことにコウは何をやらせても器用にこなすことはよく知っている。
コウに素直じゃないとからかわれながらも準備を済ませ、ドームの内外を隔てる分厚い三重扉を通過し、エアロックに移動する。今からナガト達が乗る船は掘削船と呼ばれる比較的大型の船で、その名の通り巨大なドリルを持つ。各種発光分光器と高精度音響センサで資源や熱源を見つけ、耐熱ハイパーダイアモンドで出来たドリルで堅い岩盤を掘削してそれを利用可能な状態にするのがこの船の任務だ。特徴的なのは、掘削と同時に超硬度カーボンナノチューブで出来た壁を周囲に形成することで、海水を浸入させずに掘ることが可能という点だ。本来は掘削した後、実際に海底資源を掘り出す工程や、熱交換器の設置作業などをやりやすくするための工夫なのだが、訓練船の耐圧殻に穴を開けるときに役立つのではないかと思い、船の管理者である熱源管理局長のナツメへ直談判したのだ。幸い、ここ数日は使う予定がないとのことで借りる事が出来た。
ナガト達は水中呼吸器を身につける前にあらかじめ役割分担について話し合った。一度水中呼吸器を身につけてしまうと、クリック音で会話するしかない。二人ともクリック音での会話に支障は無いが、やはり〝普通の会話〟の方が楽だ。相談の結果、コウが操船を担当し、ナガトがナビゲーションと船外活動を行うことで話はまとまった。イルカ種のコウよりもシャチ種のナガトの方が水中での力仕事には向いているからだ。大型船の操船ということでコウに任せるのは多少の躊躇もあったが、コウはシミュレータでちょっとは訓練しているらしい。掘削作業となるとまた別だが、もし必要になったときはナガトに操船を代わることになっている。
ナガトは水中呼吸器を身につけ、酸素が含まれたフルオロカーボン系の液体で肺を満たす。はじめの頃は液体を飲む際に溺れるのではないかと恐怖を覚えたり、息をするペースを意識的に落とさないと疲れるという不思議な感覚が苦手だったが、今ではすっかり慣れた。ナガト達は原型となった人類の肺にくらべると筋力や強度が高まっており、気体に比べて粘性の高い液体でも問題なく呼吸が出来る。とはいえ、粘性が高い分、空気中と同じペースで呼吸すれば疲れるのだ。酸素と二酸化炭素の溶解度が高い液体を使う事で気中よりもガス交換の効率が高まるため、呼吸のペースは落としても問題ない。特にシャチ種は海獣同様、非常に効率よい呼吸が可能で多くの酸素を筋肉中に溜め込む事も出来る。その気になれば半時間程度は無呼吸で活動出来るほどだ。イルカ種は原生人類よりすこし長い数分程度が限界で、ガス交換の効率もシャチ種ほど良くはない。ただ、水中呼吸器を使う限り、シャチ種と同程度に活動する事は可能だ。酸素の消費効率自体はシャチ種よりむしろ良く、筋肉量が少ない事もあり、同量の酸素量であればイルカ種の方が長く潜れる。このように海中に適した形質を持っているのは、遙かな昔にこの星にやってきた播種船による遺伝子改変の結果だった。
ナガトがコウへと体を向け、自分の人差し指で胸をトントンと二回たたいた後にコウの胸を指さす。コウは人差し指と親指で輪を作り、ナガトに示す。液体呼吸器の使用に異常がないかの確認だ。ナガト達の体が液体呼吸できるとはいっても、日常生活では原生人類と同じ気圧、成分の空気を呼吸している。液体呼吸器を正しく使うには知識と慣れが必要なのだ。念のためコウの血中酸素・二酸化炭素濃度を確認してみるが、問題なさそうだった。ナガトは待機していた操作員にハンドサインを出し、エアロックを海水で満たす。
『異常ないか?』
『大丈夫だよ、コウ』
小さな泡の間をカリカリといった高音が行き交う。その周波数は高く、空気中ではすぐに減衰してしまう。エアロックが海水で満たされたことで会話にも使えるようになったのだ。ただし、クリック音で自由に会話出来るようになるには聞き取り、発話ともに長期間にわたって鍛錬する必要がある。水中で活動する機会がほとんど無いイルカ種で扱える者はほとんど居ない。そしてそれがドーム外の活動をシャチ種が独占する一因にもなっていた。イルカ種にもかかわらず流ちょうに会話できるコウは例外的な存在だ。というのもコウはドーム全体の食糧供給をコントロールする食糧資源管理局の局員として働く一方で、イルカ種を束ねる役割を持つ〝イルカ種最高評議会〟の次期代表筆頭候補として特別な立場にいた。シャチ種よりも下位に置かれるイルカ種を束ね、場合によってはシャチ種との交渉が必要な立場を担うにはシャチ種と同程度の知識技能が必要になる。
体調や装備品の最終チェックを行った後、海水に圧力がかけられる。水圧が徐々に高まり、最終的にはドーム外と同じ三〇〇気圧に達する。高圧がかかったことで気嚢はすっかり縮んでしまっているため、船にある圧縮空気を使って気嚢を膨らませないとクリック音は出せない。腕に付けたコンソールで互いのバイタルデータをやり取りし、心拍数、血圧、血中ガス濃度その他がすべてが問題ない範囲に収まっていることを確かめた。水圧がドーム外と等しくなると、耐圧隔壁が開く。ナガト達は尾びれを上下に動かしながらブルーのライトに照らされた通路を進み、掘削船の係留所へと向かった。すぐにずんぐりとした扁平状の掘削船が見えてくる。ハッチの前に来たところで、ちょうど局員が掘削船から出てきた。局員時代、ナガトの部下だった男だ。確か今は係長をやっているはずだ。年はナガトとほぼ同じだが、粗暴なナガトと違って物腰柔らかく、好意を持たれやすいタイプだ。
『お久しぶりですナガトさん。整備はばっちりですよ。ただ、くれぐれも壊さないようにしてくださいよ。操船はコウさんにお願いしますね。ナガトさんの操船は乱暴だって有名なんですから!』
ナガトは元部下の失礼な物言いに色々と言い返したいことはあったが、今はぽちぽちとコンソールをいじって文字を送信するしかない。
――今回は無理を言ってすまん。今度おごる。
こう打つのがやっとだった。
『もちろん、課員全員にですよね? 絶対ですよ!』
ナガトは苦笑を浮かべながら頷く。その局員は頭部端末に指示をしてナガトに操船の権限を委譲すると、一礼して去って行った。コウは滑るように掘削船に乗り込むと、船長兼パイロットが座る操舵席へ着く。一切迷いのないコンソールさばきを見て、いつものように知らないところで練習していたのだろうとナガトは思った。いくらコウの親が食糧資源管理局の局長をしており、融通は効くとはいえ、本業以外の勉強や修練を続けるのはかなり大変だ。辛そうなそぶりを一切見せず、単調になりがちな局員としての仕事も、イルカ種を束ねてゆくというストレスフルな役割もこなす恋人に今更ながら感心する。ナガトも負けてはいられないと、操舵席のすぐ横にある副操舵席へと向かった。通常は船長を補助する者が座る席だ。席へ着こうと身体をひるがえしたそのとき、ナガトの大きな尾っぽが外郭に当り、鈍い音が船内を響いた。この掘削船は開放式で高速移動も不要なため底部の掘削機以外はかなり華奢な作りをしている。水の抵抗を軽減するための簡単な外殻はあるが、かなり薄い。その割に大きさだけはあるという構造のため、衝撃を与えられると船全体が反響する。ナガトもはじめて掘削船に乗ったときはその貧弱さに驚いたものだった。ナガトは座席へ体を固定すると噴気孔にチューブを挿入し、圧縮空気で気嚢を膨らました。これでようやくクリック音が出せるようになる。同じく圧縮空気を補給したコウがクリック音を放つ。
『あんな約束して大丈夫なの? 彼、結構飲みそうだけど』
『大丈夫、課員はほぼ全員下戸だ』
ナガトの返答にコウから笑うようなチリチリといたクリック音が返ってくる。ナガトは液体呼吸器の接続先を携帯タンクから船に搭載された供給装置に変えた後、コンソールから伸びた光ファイバーを頭部端末へと繋ぎ、拡張エコロケーションシステムとのリンクを開始する。ナガトの額から発射された音波は頭部端末のマイクロフォンに拾われ、船に搭載された音波増幅器を通って船の周囲に広がる。周囲の壁に反射して戻ってきた音波は高感度音響センサに拾われた後、増幅、ノイズ除去されて下あごへと伝えられる。これによってナガトは船外の地形を細部まで認識する事ができた。船の外は綺麗な長方形をした壁に囲まれているはずだが、少し歪んでいるように感じられる。ナガトはコンソールを操作して微調整を繰り返し、船の音響系と自身の認識の誤差を減らしてゆく。納得のゆくまで反応を合わせた後、コウに準備が出来たことを伝える。コウは既に船のセルフチェックを走らせた後らしく、ナガトの周囲にあるインジケータは全て緑に点灯し、すぐにでも出港できることを示していた。ナガトが頭上にある扉が完全に開いたことをコウに伝える。モーターの振動とともにプロペラ回転数が徐々に上がり、掘削船はゆっくりとドックを離れた。
暗く静かな海の底を掘削船は進む。光が届ず、かといって他の熱源もない海底では生物は生きることが出来ない。ドームの外には死の世界が広がっている。クリック音を放射してもただひたすら平坦な海底が広がっているのが感じられるだけだ。ドームへの入り口は平坦な地形とほぼ同化しており、ゲートのすぐ近くに設置されたビーコンの音がなくては見分けが付かない。
ただ、たとえドーム周辺に死の世界が広がっているとしても、海嶺の熱水噴出孔に行けば驚くほど多様な生命に満ちあふれていた。ストレスの多い生活を送るナガトにとって、この呆れるほどの開放感と毎回のように新たな発見があり、飽きさせない多様な生態系ははぐくむ熱水噴出孔が存在するこの〝海〟は何者にも代えがたいものだ。いつもなら水を得た魚ならぬ水を得たシャチとなって生き生きしてくる。にもかかわらず、今のナガトは漠然とした不安でいっぱいだったを感じていた。訓練船に万が一の事があったとしても、今すぐに浸水してしまうということはないだろう。耐圧殻は多重構造になっているため、短時間のうちに乗務員が沈んでしまうとは考えにくい。訓練船と教育局との通信は今も傍受しているが、ナガトが見る限り変った点は見受けられない。にも関わらず湧き出してくるこの不安はなんなのだろう。厄介な事にこの種のナガトの嫌な予感は的中することが多い。
『ナビゲート、してくれる?』
コウの声にハッとする。ナガトは不安はひとまず横に置き、急いで一定間隔で配置されたソナービーコンからの音波を使って現在位置を特定する。海底地形図を見ながら訓練船が座礁しているポイントまでの経路を思案した。そうはいっても周りはほとんど何もない平原が広がっているだけだ。訓練船の近くは多少凹凸が増えるため注意する必要があるが、当面は直進するだけで事足りる。
『嫌な予感がする。できる限り急いでくれ』
海流を考慮してルートを概算し、コウに伝える。
推進器の出力が最大値に達して数分もしないうちにナガトの予感は的中する。訓練船と教育局とのやりとりがにわかに騒がしくなっている。ナガトの頭部端末から漏れる音が聞こえたのか、コウがこちらを向いた。
『なにかあった?』
『どうやら訓練船の船外タンクの酸素残量とバッテリ電圧が急激に減っているようだ。まずいな、このままだとあと一時間もせずに影響が出るぞ……』
『予備の機材は? たしか、多めに積んでると聞いていたんだけど』
『食料と酸素ボンベは積んでる。電源が喪失しても三日程度は大丈夫なはずだ。二酸化炭素は吸着剤で処理出来る。ただ、そのためには乗務員自身がフィルタを装着する必要がある』
『で、肝心の彼らが大混乱というワケね』
頷いたナガトは傍受している会話をコウの端末へと転送する。イルカ種のリーダーと思われる人物はただひたすら不安を訴えているだけだ。別の乗務員がそのリーダーの頼りなさを非難するような声が漏れ聞こえてくる。一方、教育局からの指示も曖昧で時には矛盾するものもあり、乗務員を落ち着かせるどころか逆に混乱を招いているようだ。それに輪を掛けているのが、訓練船と教育局との通信ラグだ。電波とは段違いに遅い音波を使った通信ではラグが酷い。訓練船から発せられた通信音波は途中から海底各所に設置された基地局で光信号に変換され、光ファイバー網でドームに送られている。直接音波通信するのに比べるとかなりマシだが、それでも応答に三十秒はかかる。
『これは酷いね。私が言うのもなんだけど、彼らはまだドーム外へ出すのは早すぎたんだと思うよ。普通のイルカ種はこういっただだっ広い空間には慣れていないからね。それだけでも恐怖だよ。それに彼ら、水中呼吸器も扱えないんでしょ?』
『ああ。せめて教育局から事前に情報が入っていれば対処のしようもあったんだが。あまり刺激するのも良くないと思って教育局まかせにしたのがまずかったな。それにしても、教育局の対応もなんなんだ、これじゃあまるで素人じゃないか!』
ナガトはいらだちを隠そうともせず、噴気孔から大粒の泡を吹き出す。天井まで達した泡が外壁の隙間を抜けて遙かな海面へと向かって昇って行った。
ナガトが両者のやりとりの間に強引に割り込むべきか思案していたそのとき、耳障りな警告音が船内に鳴り響く。直後、大音量ですぐさま停止しろという声が聞こえてきた。船の外殻が震えるほどの大音量だ。指向性の強い大出力スピーカーを向けられているのだろう。
『うっせえ! 誰だよ!?』
ただでさえ苛立っていたのに不躾な行為をされたせいもあり、ナガトは頭に血が上る。ナガトの後頭部からぶくぶくと大量の泡が噴出した。怒りにまかせて船の全周に向けて思い切りクリック音を放ったのだ。斜め後ろ上方から反射音が返ってくる。どうやら掘削船より一回り小さい船影のようだ。おそらくドーム付近を巡回している警備艇だろう。今までは海底にばかり気を取られていたため、うっかり見逃したのだ。ナガトが船外マイクを使って応答しようとしたとき、不協和音に襲われ、思わず手を止める。操縦席の方を向くと、不協和音が止む。。
『冷静に、ナガト。相手からすると私たちは不審者なんだよ』
『わ、分かった』
エコロケーションに慣れていると、反響音を物体として感じるようになる。それを逆手に取れば、まるでその場に無い物体を認識させる事も可能だった。コウが作り出した音は、背中に刃物を突きつけられたかのような感覚をナガトに与えた。本物ではないとすぐに分かるが、不快で、ぞっとした。
『停船するから対応はナガト、お願いね』
コウがナガトの了解も待たずに推進器を停止させる。掘削船の特異な形状から船籍が熱源管理局にあることは一目で分かってしまうだろう。掘削船は低速だが重く、馬力はある。相手は小型艇なので停船命令を無視しても強引には止められないだろうが、これ以上熱源管理局に迷惑を掛けるわけにはいかない。警備艇はゆっくり近づいてくると、さきほどと同じ方法で詰問してくる。
『一体何をしている? この時間にデカブツが出るとは聞いていない。所属と目的を言え』
大音量で鳴り響く声に、コウが手をひらひらとさせる。面倒くさそうな相手だねとでも思っているのだろう。資源の限られたドームにとって船は貴重な財産だった。そのため、一定以上の大きさの船はあらかじめ警備局に届け出をすると決められている。緊急時には事後報告も認められてはいるのだが、巡回中の警備艇に見つかるとなかなか解放してくれないのが常だ。それが格下の局の船となればなおさらだった。警備艇は進路をふさぐように目の前に移動してきた。
『当方は救出活動のために緊急出動している。事前に通達出来なかったのは申し訳ない。ただ、一刻を争う事態なのは理解して欲しい』
苛立ちを抑えてナガトは勤めて冷静に応える。警備局はドーム外を自分の領域だと考えている節があり、大型船舶を多数所有する熱源管理局を疎ましく思っているようだった。例え事前に届け出をしていても嫌がらせのように停船させる場合があるのだ。ナガトも熱源管理局時代に何度も不快な目をしていた。
『まずは所属を言え。緊急事態など我々は承知していないし、仮に発生していたとしてもそれに対応するのは我々だ。貴船ではない』
緊急事態に対処しようとしないから、俺たちが出ているんだろうがと怒鳴りそうになったが、グッと堪える。そもそも訓練船座礁の情報が現場まで降りていない可能性は高い。
『私は上院議員のゴウサカだ。まだ公表はされていないが、人命に関わる事態が起きている。あなたたち警備局が優秀であることは理解しているが、特殊な作業が必要なため熱源管理局から船を借りているんだ。こうしている間にも取り返しがつかなくなる可能性がある。万が一の時の責任は私が一手に引き受けるから、道を空けて欲しい』
ナガトとしても正式な手順を踏んでいないため、どうしても曖昧な応答になってしまう。警備艇からチリチリという高周波の音波が放たれているのが、船のエコロケーションシステムを通じて感じられた。警備艇がセントラルタワーにある指令所とやり取りをしているのだろう。電波に比べると音波はあきれるほど遅く、ナガトの苛立ちが募った。
『本部に問い合わせてみたが、そういった事態は把握していないとのことだ。それに、仮にあなたが本物の上院議員だとしてもここは議会会場ではない。我々の指示に従ってもらう。ガイドに沿って進め』
警備艇からドームの方向へ向かって指向性レーザーが伸びる。ナガトは高慢な態度に激高しそうになるのを必死に押しとどめる。ここで事を荒立てては救出へ向かうのが更に遅くなる。とはいえ、このままでは埒があかない。そちらがそういった態度で来るのならばと奥の手を出すことにする。
『もう一度言う。私の名前はゴウサカ=ヨシエダ=ナガトだ。この意味は分かるな? IDコードを今送った。それでも信じられなければ私の兄、ヨシエダ=ゴウサカ=キミヤスに連絡を取れば分かるはずだ』
再度、警備艇とドームの間を通信用音波が行き交う。上司に慌てて相談しているのだろう。ナガト達が住んでいるギョクツドームでは公務員が約半数を占めており、行政府が厳しく管理している。残る民間分野も自由という訳にはいかず、行政府によってある程度管理されていた。完全に自由なのは政治家や芸能人、スポーツ選手といった一部の職に就くものだけだ。こうなっているのは、人口の割に資源、生存空間ともにきわめて小さいため人々に完全な職業の選択自由を与えるだけの余裕が無く、効率的な人員配置を行うためでもあった。普通であれば次子以下が職にあぶれる可能性が出てくるが、ギョクツドームでは人口増加を抑制するため自然生殖は認められていない。二人の両親につき一人から三人の子供を許可を得て作るのだ。親となるためには誰かとペアを組む必要はあるが、それが異性同士である必要は無い。そもそも幼少期に物理的な不妊処理が行われるため自然生殖は不可能であり、子を持つときには両親の遺伝情報を元に生殖細胞が作られ人工授精、人工出産が行われるからだ。場合によっては血が濃くなることを防ぐためにときには三者以上の遺伝情報が組み込まれることもある。そうして与えられた子供は両親のどちらかを〝主親〟としてその職業を引き継ぎ、もう一方はその子にとって〝[[rb:従親>じゅうしん]]〟となる。そして主親の第一姓が子の第一姓、従親の第一姓が子にとっての第二姓となる。この命名規則は法制化されており、事実上の職業選択の自由を奪うものだった。フルネームを見るだけで〝本来あるべき〟職業が分かるのだ。姓と職業が一致しなければ資格が得られないなどの不都合が出る。ナガトの場合、第一の姓は主親であるナツメの第一姓である「ゴウサカ」、第二の姓「ヨシエダ」で、これはドームのトップである知事の第一姓だ。つまり、ナガトはフルネームを言うことで知事の親族である事を表明した事になる。また、「キミヤス」というのはナガトの兄の名だった。キミヤスはナガトの兄弟だが〝主親〟は現知事キミトで、第一姓と第二姓がナガトとは逆になっている。キミヤスは主親キミトの支持母体である通信局には入らず警備局に入局したという変わり者だが、それが出来たと言う事自体が特権階級にあることを示している。権利を使ってねじ込んだというだけではなく非常に有能で警備局の幹部になった後、政治家に転身している。シャチ種では中の上、もしくは上の下かというポジションの「ゴウサカ」姓は代々熱源管理局に就くのが普通だ。対してトップエリートの「ヨシエダ」姓ならばある程度の自由が効いた。本来は「ゴウサカ」姓の系になるナガトでさえ、第二姓に「ヨシエダ」をもつことで二十代半ばにして上院議員になれるのだ。「ヨシエダ」を第一姓に持つ兄はその上をゆく。ナガトはキミヤスの名を出す事で警備局に直接的な影響力をもつ兄がバックにいることをほのめかしたのだ。虎の威を借る狐だが、こうするのが一番早い。
『発進してくれ』
ナガトは警備艇の返答も待たずにコウに指示する。確認もなくプロペラの回転音が急激に高まり、体が軽くシートに押しつけられる。コウも警備局の職員はもう手出しできないことを十分に分かっているのだ。ナガトがキミヤスの名を出した時点で勝負は決まっていた。知事の子と言うだけならまだしも、職員に直接ダメージを与えうる警備局出身の有力政治家キミヤスの弟には現場レベルでは対処出来るはずもない。世襲制による硬直化はナガトが今後変えたいところだが、変えられる力を持つまでは存分に利用するつもりだった。
予想通り警備艇は追ってこず、クリック音を発してもただひたすら平坦なしか見えなくなってきたころ、コウが席から立ち上がって伸びをした。オートパイロットに切り替えたようだ。ナガトは訓練船の状況が映し出されるディスプレイへと視線を戻す。バッテリの電圧は速度は緩まったが、いまだ漸減を続けている。乗務員はあまり役に立たない教育局の指示に嫌気がさしたのか、ほとんど返答していない。あまり良い兆候では無かった。ナガトは口を挟むかどうか悩む。ただ、ナガト達のいる場所は通信用の海底基地局から遠い。ラグが大きすぎて会話にならないだろう。それに教育局が会話に入ると話がややこしくなる上、通信が妨害される可能性もあった。ナガトは体を解すコウに声を掛けた。
『疲れたか?』
『なにしろこんな大きな船を操るのは初めてだからね』
『そうか』
コウが噴気孔からカリカリと音を立てながら泡を吹き出すとシートベルトを外し、ナガトの方へ漂ってきた。
『どうかしたのか?』
『少し心配になってね。あんまり根を詰めすぎるのも良くないよ。一刻も早く彼らを助けたいのは分かるけど』
『さっきのことか?』
ナガトは目をつぶり、溜まった疲れを解すように目頭を揉んだ。先ほどの警備艇とのやりとりを、少し感情的になりすぎたかと思い返す。
『さっきはああするしか無かったと思うよ。でも……、いや、なんでもない』
コウはナガトの後ろから肩を掴み、少しもみほぐした後、操縦席へと戻っていった。もう少し言い方はあったかもしれないが、あの場面では悠長に交渉する暇は無かった。兄の威光を借りるのはあまり良い気分ではない。しかし、それを躊躇する場面でも無かった。自分のつまらないプライドと人命ではどちらが重要かなど明白だ。コウはそれを理解した上で自分を心配しているということも分かってはいる。事が起こってから対処すれば良いというナガトとは違って、コウは二手三手先を読んで動くタイプだった。
『あとで抗議はされるだろうがな。まあどうにかなるだろうさ。あと数分もすれば訓練船と直接連絡が取れるはずだ。ソナーアレイを用意してくれ』
コウが『了解』と言ってソナーアレイの準備を始めた。考えるのは後でやれば良い、今は行動あるのみだとナガトは頭を切り換える。
『こちらは熱源管理局所属の掘削船、救助に来ました。船外マイクで応答して下さい』
ソナーアレイを展開し、コウが訓練船へ直接呼びかける。この方法なら教育局に邪魔されずに会話が出来る。既に訓練船との距離は五キロメートル程度となっており、ラグも五秒以下だ。最初はいきなり聞こえてくる声に驚いていたようだが、方法を簡単に事情を説明すると、応答があった。他の船と直接音声通話をする方法も知識としては知っていたようだ。教育局からの指示が続くと乗務員がナガト達の意図しない行動をとる可能性があるため、しばらくは教育局からの通信は無視し、こちらの指示を聞くようにと伝える。教育局に対して苛立ちをつのらせていたのか、理由は聞かずにおとなしく従ってくれた。掘削船の装備を使えば、耐圧殻に穴を開けて救出出来ることを伝えたことも良かったようだ。ファーストコンタクトは良好だ。ナガトはコウと相談し、いきなり救出作業に入るのではなく、まずは情報収集を行うことにした。訓練船の各種データを二人で精査した結果、どうしても整合が取れない部分があるのだ。例えば、酸素タンクの圧力が低下しているのにもかかわらず、浮力の変化によって当然引き起こされるはずの重心移動がなく、タンクから流れ出す流量も通常時と変らない。また、バッテリ電圧が低下しているにもかかわらず、電子機器の動作に異常が見当たらないなどの不審な点が見つかった。単なる故障かもしれないが、異なるセンサが同時に故障するのは偶然にしては出来すぎだ。ナガト達は何者かが意図的にデータを改ざんしているのではないだろうかと思い始めていた。例えば、通信局がデータに手を加え、偽のデータを教育局に送っているのではないか? 訓練船の不祥事はそのままイルカ種権利拡大派へのダメージになる。もちろん、教育局が好き好んで不祥事を起こすとは考え辛く、通信局が無断で妨害していると考えるのが普通だ。この場合、教育局の対応がずさんなのは単に無能だからという事になる。
二人は三十分ほどかけて訓練船に保存されているデータのログを見返してみたが、改ざんの痕跡は見つけることが出来なかった。教育局に送信されたデータと訓練船のデータは完全一致している。もし改ざんがあるとすれば、訓練船のシステム自体に何かしらの手が加えられているのだろう。ただ、それを確認するには直接確認するしかなかった。問題となっている外部バッテリや外部タンクには保守用に補助計器が取り付けられている。この計器は船の制御に利用される主計器とは独立しており、生データをそのまま表示するようになっている。メンテナンス時にはこの補助計器の値と船の制御システムに送られている主計器のデータが一致しているかどうかを確認するのだ。つまり、何者かがシステムに手を加えたとしてもこの補助計器の値は改ざん出来ないことになる。補助計器はアナログ情報のため改ざんするのは非常に難しい。
『外に出るか』
ナガトは立ち上がって液体呼吸器を携帯式ボンベに繋ぐ。救助のために船外活動をするのは三年ぶりだ。船外活動自体は何度も行っているが、直接人命を左右する可能性のある救助活動のためとなると、身の入り方が違ってくる。
『圧縮空気ボンベ、忘れないようにね。念のために工具類も持って行った方が良いよ』
コウに了解のハンドサインを見せる。液体呼吸器と圧縮ボンベをそれぞれ身につけ、動作チェックを三度行う。
『準備完了した。今から船外活動に移る』
『了解。ドア、開けるね』
船外に出たナガトの前に、ライトに照らされた訓練船が浮かび上がる。船は葉巻型で中央部がやや膨らんでいる。ギョクツドームの大気圧船では良くある形だ。少数だが熱源管理局にも同型の船がある。乗務員が居るのは膨らんだ部分にある耐圧殻だ。船の一部が海底に埋もれているが、見たところ破損している様子も無く、高速で衝突したようには見えなかった。訓練船の一キロメートルほど向こうには多くの岩が突きだしている危険なエリアがある。そこに座礁していれば無事ではなかっただろう。見たところ先端部の潜舵は無事なようだ。後部には舵とスクリューが見える。詳細は近づかないと分からないが、こちらも大きな破損はないように見える。これでデータ改ざんの疑惑が更に高まる事になる。
ナガトが目指すバッテリーと酸素タンクは船体のやや後方、耐圧殻と推進器の間にあった。幸いなことに両者とも地面には接していない。ナガトは掘削船の後部ハッチを開けて個人用の推進装置を取り出す。推進装置は横長のパイプの両端にバッテリーで動作する小型のスクリューが取り付けられており、背中に背負って使用する。横長になっているのは尾びれの動きを邪魔しないようにするためだ。ナガトが持ち出す工具はいざとなったら隔壁に穴を開けられるレベルのフルセットであり、いくら水中とはいえ人力で運ぶのは厳しい。そのため、推進装置だ。
ナガトは推進装置のバラストタンクに海水を出し入れしながら中性浮力を保ち、訓練船に近づく。青い塗装が施された酸素タンクの曲面に、四角の中に二つの丸が並べられたマークが見えた。補助計器へのアクセスポイントを示すマークだ。頭部端末にリーダーを接続し、アクセスポイントへ接触させる。網膜ディスプレイに表示された値は47MPaだった。正常値の範囲内だ。
『こちらナガト。酸素タンクへのアクセスに成功。データはレーザーで転送する。予想通り主計器の値とは違っている』
『データ受信成功。こちらも確認したよ。ってことはバッテリも?』
酸素タンクのすぐ横に配置されたバッテリのアクセスポイントに手を伸ばす。こちらの値も主計器の情報とは異なり正常値だった。
『つまり、この船のシステムが言ってきている情報は信用ならんってことだな。引き続き推進器のチェックを行う』
『了解。ライト、いる?』
『頼む』
ナガトが答えると同時に掘削船からライトを搭載した遠隔操作式ポッドが三機放出される。単純な曲面の酸素タンクとは異なり、推進器は複雑な形状をしている。そしてナガトがいくらエコロケーションの熟練者でも眼ほどの解像度は得られない。ポッドのライトに照らされれ、スクリューとX舵がはっきりと見える。思った通り、損傷は全く無かった。問題があるのは訓練船の制御システムだ。
ナガトが推進器の様子を確かめようとしたとき、チリチリという不快な高周波音が頭に響いてきた。可聴域ぎりぎりの高音だった。ナガトたち、ドームの外で作業を行う者にとっては馴染みの音波通信の音だ。訓練船が何か通信したのだ。直後、ナガトの頭部端末が警告音を鳴らす。
『ナガト、耳塞いで』
コウのクリック音を聞き、急いで防音ヘルメットを手に取る。ヘルメットで頭部を覆うのとほぼ同時に掘削船から爆音が聞こえてきた。遮音性の高い防音ヘルメットを通していても頭に響く。まともに聞いていたら失神していただろう。
『船外活動中に直接通話は勘弁してくれ』
『ごめん、緊急だったからさ。音響パイプつないでおいた方が良いね』
音響パイプというのはその名の通り船と船の間で直接通話をするためのパイプだ。ナガトは掘削船から射出されたパイプの先端を掴み、耐圧殻の近くに繋ぐ。
『で、一体どうしたんだ?』
『教育局からの状況報告の要求があまりにしつこいから救助隊が到着したと返答してしまったみたい。今後は一切通信を控えるよう言ったよ。彼らも私たちからの指示がないから不安に思ったのかも』
『そうか。乗務員には細かく交信してやってくれ。ただ、船のシステムがイカれていることはまだ伏せてだ。それにしても教育局と〝何者か〟に俺らの存在が知られてしまったな。乗務員があちらからの指示は無視しろ念を押しておいてくれ。あと、操縦は絶対にするなとな』
ナガトは推進器へ体を向ける。何者かは直接的な妨害は出来なくても、偽のデータを掴まされた教育局が乗務員に危険な行動を取らせる指示を出す可能性がある。たとえば、耐圧殻が持たないから水中呼吸器を身につけさせようと指示をするなどだ。慣れない者が水中呼吸器を使えば肺を損傷したり、場合によっては窒息する可能性さえある。
ナガトは推進器を詳細に調べては見たが、やはり損傷があるようには見えなかった。ハード的な不具合ではなく、誰かが仕組んだソフト的な不具合が正常動作を妨害しているのだろう。ナガトがコウにそのことを伝えようとしたそのとき、突如として不気味な振動と重低音が感じられた。その音は徐々に高くなっていく。
ナガトはとっさに反応していた。訓練船のスクリューに背を向けると同時に、自身の推進装置を即座に起動する。訓練船のスクリューがゆっくりと回転を始めるのが見えた。掘削船のものよりは一回り小さいとは言え、巻き込まれればナガトは一瞬のうちに肉塊に変る。そして厄介な事にそのパワーは、推進装置の小さなスクリューとナガト自身の泳力を合わせたものよりもずっと大きい。
『緊急事態だ! ポッドをこっちに寄せてくれ!』
ナガトは思いっきりコウを呼ぶが、スクリューの回転音にかき消されて掘削船へは届かない。船首が海底をえぐり、舞い上がった砂で視界が閉ざされる。とっさに工具入れの中から携帯用の打ち込みアンカーをとりだして船体骨格へと押しつけてトリガーを引いた。爆発的な燃焼で発生したガスがアンカーを打ち出し、外殻を突き破ると先端が広がってアンカーが船体に固定される。ナガトはすぐさまそのアンカーにパイプを取り付け、両手で掴む。スクリューの回転で生み出された乱流がナガトを揺さぶり、身体が何度も訓練船の船体へと叩きつけられる。歯をむき出しにして必死にしがみつくナガトだったが、無情にもスクリューは更に回転数を上げる。
――このままではミンチだ!
ナガトは推進装置の推力を限界まで上げて何とか身体を安定させる。更にアンカーを追加してワイヤーを取り付け、推進装置とアンカーを繋ぐ。尾びれで必死にバランスを取りながら片手をパイプから離す。近くにあるはずの緊急停止装置を手で探った。推進器の近くで作業を行うときは、常に緊急停止装置の場所を意識するのが常識だ。早くしないとパイプを掴んだ腕が引きちぎられそうだ。
――あった!
目当てのものを見つけたナガトはレバーを一気に引き下ろす。キーンという甲高い音を立ててながらスクリューの回転力が回生ブレーキによって電気へと変換され、ナガトを引きずり込もうとしていた力が弱まる。監視システムがその異常を感知したのか、モーターとプロペラシャフトの動力伝達経路が断たれ、スクリューは完全に停止した。
『ナガト! 返事して!』
静かになるとすぐにコウの声が聞こえてきた。アイツでも焦ることがあるんだなと意外に思いつつナガトは大丈夫だと答える。ついでに『俺が失敗することなどあるものか』とも付け加えておいた。海の王者がスクリューに巻き込まれて死ぬなどあってたまるものか。とはいえ、危なかったのは確かだ。推進器の操作パッドを操作して手動モードに切り替える。これで船のシステムからは操作できない。
『船の状態を教えてくれ』
『船内気圧に変化なし。温度や酸素、二酸化炭素濃度も正常値のままだね。電源も問題ないみたい。ただ、大パニックを起こしてるね、彼ら』
『一応確認しておくが、そのパニックは俺を殺し損ねたからじゃないよな』
『パニックの原因は突然船が動いたからだね』
全力稼働させた事で過熱気味のバックパック式推進装置を停止させ、尾びれを動かして訓練船から距離を取る。砂に邪魔されて視界は悪いが、エコロケーションならある程度船体の状況は確かめることが出来る。ナガトの邪魔が入ったために船体を動かすのに十分な推力を得ることが出来なかったらしく、船はほんの少し動いただけで大勢には影響なさそうだ。推進系にも問題が無いのは身をもって体験した。コウに報告を入れる。
『目視は出来ないが、船体に異常は無いと思う。乗務員は落ち着けられそうか?』
突然スクリューが動き出した原因は気になるが、まずは乗務員を落ち着けるのが先だ。ナガトは打ち込みアンカーのカートリッジを交換しながらコウが乗務員にコンタクトをするのを待つ。ナガトが直接話しかけることも出来るが、同じイルカ種の方が話しもしやすいだろう。長年にわたる格差のせいでシャチ種に対するイルカ種の不信感は根強い。
『何とかおとなしくなったよ。彼らとしては一刻も早く穴を空けて助け出して欲しそうだったけどね。あと、念のため彼らに何かしたかと聞いてみたんだけど、一切コンソールには手をつけてないってさ』
それを聞いてナガトはほっと胸を撫で下ろす。パニックを起こされては何が起こるか分かったものではない。
『教育局には何の義理も無いが、出来るなら訓練船は無傷で回収したい。大気圧船は貴重だからな。にしてもなんで突然推進器が動き出したんだ? 今までうんともすんとも言わなかったのに』
『うーん、それなんだけど、スクリューが動き出す直前に不自然な音波を受信したんだよね。デコード出来なかったから、教育局じゃない可能性が高い。その音波を受けてスクリューが動き出したって考えられるかな?』
コウからの返答にナガトは頭を捻る。
『……まず無理だな。連中があえて遠隔操作を受け入れない限りは』
遠隔操作は可能ではあるが、操船には優先度が設けられており、人が操作するときは遠隔操作は無効にされるのが普通だ。乗船した時点で体内に埋め込まれた生体認証IDを船が認識し、乗務員が意図的に遠隔操作モードにしない限りはマニュアル操船モードに切り替わる。遠隔操作モード自体が、乗務員が寝てる間に次の作業現場の近くに船を向かわせたり、あらかじめ資材を無人の船に乗せて作業現場の近くまで移動させておくといった用途のために用意されているのだ。細かい操船に使うものではない。ドーム内であれば電波が使えるため正確な遠隔操作も可能だろうが、音波を使うとラグが多すぎてかなりおおざっぱな操船しか出来ないのだ。念のためにコウに操船モードの確認をしてもらったが、やはりマニュアルモードになっている。ただ、主計器のデータが改ざんされていたように、実際の操船モードとシステムの回答が違うという事もありうる。
『オートパイロットは? 遠隔でオートパイロットに切り替えれば』
『それも難しいな。マニュアルモードなら操舵席から操作しないとオートパイロットは起動できない。まあ、この船のシステム自体に細工されていれば可能なのかもしれないが……』
そんなに大がかりな細工が行われていれば、データの矛盾なんて残さないよなとナガトは心の中で続ける。主計器の読み値を書き換えるだけならまだ可能だとは思う。しかし、推進や操船、生命維持といった重要な基幹システムはハードウェアレベルで組み込まれており、そう簡単には変更できない。目的がナガトの失脚やイルカ種の権利拡大阻止にあるのだとしたら、コストパフォーマンスは相当に悪い。
ナガトはこれ以上悩んでも仕方がないと頭を切り換える事にする。原因究明は後にして、まずは乗務員を安全にドームに返すのが先決だ。
『原因は分からんが、ちゃんと船は動くことが分かったんだ。これは大きな一歩じゃないか?』
『コントロールが出来なきゃ動かない方がマシって考えもあると私は思うけど』
操舵席でコウが肩をすくめるのが目に浮かんだ。コントロール出来ないんなら無理矢理言うことを聞かせてやれば良い。ナガトは推進系を丸ごと乗っ取るのに必要なすべての工具が背中に入っていることを頭の中で確かめた。推進器が動くのであれば自力で帰れるはずだ。
推進系から伸びているコントロール用光ケーブルの位置を確認し、船体のカバーを外すための工具を手にする。そのとき、コウから再び緊急連絡が入った。
『今すぐそこを離れて。システムがリブートしてる』
その言葉にナガトは眉をひそめた。ナガトはとっさに緊急停止装置を確認する。黄と黒で縁取られた枠の中にあるレバーは〝動作〟になっている。これは緊急停止装置が作動しているということを示す。この装置は機械的に動作するため、システムが関与することは不可能だ。だが、ナガトは安心できなかった。今の状況は慣れ親しんだ通常の船外活動とは異なっている。安全は装置単体ではなく、正しい手順を踏んで初めて効果を発揮する。それに、安全装置はミスは防げたとしても意図的な妨害に対しては無力なことも多い。
重低音が聞こえてきた。モーターが動き出したようだ。ナガトは訓練船から離れ、掘削船の船外作業員向けのデッキに体を固定する。
『待避した。何が起きているか分かるか?』
『確実なことは言えないけど、また船を動かそうとしているみたい。乗務員にすべての動作を停止するよう指示したけど、船内からの操作には反応しないみたいだね』
『本当か? そうなるとやはり船は遠隔操作モードになっているってことかよ』
妨害者は意地でも救出を阻止したいらしい。イルカ種の権利拡大に、よっぽど反感があるのだろうか。
『みたいだね。まず現状の確認だけど、推進器の停止装置は動作しているんだよね』
『ああ。それは何度も確認した。それに、さっきの緊急停止でモーターとスクリューをつなぐシャフトが切断されているはずだ』
ナガトは訓練船のスクリューに目を向ける。まったく動いているようには見えない。ナガトは先を続ける。
『仮にスクリューのプロペラシャフトとモーターがつながったとしても、いきなり動き出す事はない。ギアの前段に設けられた回生ブレーキが回転エネルギーを電気に変えて回転数を落とし、次段の摩擦ブレーキがスクリューの動きを完全に止めるはずだ』
『それは私も訓練船のマニュアルを見て確認しているよ。停止装置は遠隔操作で解除できないよね?』
『ああ。あの装置は手動レバーを介した油圧で動作している。遠隔操作は絶対に不可能だ』
少し間が開く。「だったらなぜ?」という言葉が操舵席に座る相方にも浮かんでいるのだろう。訓練船を遠隔操作している何者かは緊急停止装置が作動したことを分かっているはずだ。それはシステムをリブートしたとしても解除されることはない。解除しようと思えば現地に行ってレバーを操作しないといけない。
『あのさ、少し気になったんだけど、このデータシート見てくれる?』
ナガトの網膜ディスプレイに二つの表が表示される。回生ブレーキとプロペラ駆動用モーターの諸元表だ。
『単純に考えると、モーターの出力って回生ブレーキのスペックをオーバーしているように見えるんだけど』
『ああ、回生ブレーキはあくまで摩擦ブレーキの負荷を減らすためのものだからな』
その言葉を受けてか、もう一つの表が網膜ディスプレイに表示される。
『これが摩擦ブレーキのスペックなんだけど、私の計算によるとモーターが最大出力になると回生ブレーキを通った後のトルクが静摩擦トルクを上回るんだよね。これってブレーキじゃ完全に止められないってことじゃない?』
『それは回生ブレーキが動作した後もモーターがずっとフル回転した前提でのはなしだろ? 実際には回生ブレーキが動作したらシステムが電流を検知してモーターとスクリューとの接続を切り離す……』
そこまで言ってナガトはハッとする。これはあくまで〝普通〟の動作だ。確かに緊急停止装置は単独でも動作する。しかし、単独では十分な効果を発揮できない。その穴をナガト達の〝敵〟は突いてきたようだ。
『コウ、回生ブレーキが動作しているかどうかは確認できるか?』
『今やってる。どうやらフル稼働に近いみたいだね』
コウの言葉に、ナガトは自分の読みが正しい事を確信する。何者かはまだ諦めてないらしい。
『やっぱりか。遠隔操作している奴らは船の構造に詳しいらしい。さっきの再起動はおそらく緊急停止の状態をリセットするためだ。一度緊急停止されたらシャフトが切断されるのでモーターからプロペラに動力は伝わらない。ただ、一度リセットすればシャフトは繋げられる。停止装置は動作したときだけシステムにフラグを立てる。普通は緊急停止装置を起動させたままモーターを動かす事なんてあり得ないからな』
『ちょっと待って、ナガト。そんなことしたところで無駄じゃない? さっき私がした計算だと、たとえモーターがフル回転しても、ブレーキが動作してるからプロペラを回せるほどにはならないと思うんだけど。うん、やっぱりそうだ、訓練船の自重と海底との摩擦を考えると簡単に動きそうには……』
ナガトはコウから送られてきた計算結果を見る。確かに、スクリューが動いたとしても船を動かすのに十分な推力は得られない。ただ、この計算にもある前提が必要であることをナガトは気がついていた。
『いや、そうとも言えんかもしれん。二つのブレーキは長く持たないんだ。どちらもあくまで緊急時に短時間しか使わないものだかならな。長時間回せばまず、回生ブレーキで発生した電気エネルギーを熱に変えるための抵抗が発生した熱で焼き切れる。そうすると回転数が一気に上がり、摩擦ブレーキに大きな負荷がかかる。ついにはこちらも焼損だ。そうなれば訓練船は明後日の方向へ進むしかなくなる』
スクリューが徐々に回り始めるのが見えた。モーターの出力がブレーキの静止摩擦力を超えたのだ。動摩擦力は静止摩擦力より小さいので、この回転が自然に止まる事は絶対にない。ナガトは体を固定するワイヤを外し、推進装置の電源を入れた。
『ちょっと、何するつもり!』
『モーターを止める』
遠隔操作ポッドのライトがナガトを照らす。コウの目にはポッドから見た映像が映っているはずだ。
『無茶だよ! 死ぬつもり!』
『もちろん死ぬつもりはないさ。ただ、こうしている間にもブレーキは限界に近づいているんだ、もし本格的に回り出せば乗務員はどうなる? コウは遠隔操作の指令をジャミング出来ないか試してくれ』
ナガトはコウの制止を無視して訓練船へととりつく。先ほど打ったアンカーがしっかり固定されている事を確認し、体を固定する。ナガトは自分の背後でゆっくりと回転するスクリューを一瞥し、配線の経路を確認する。自分が死ぬのは怖くなかった。目の前で人が死ぬのを黙って見ているのに比べればよっぽどマシだ。
これからは時間が勝負だ。配線図を再度確認したところ、モーターのコントロール用光ファイバはかなり奥の方に存在することが分かった。時間を掛ければアクセス出来るが、今はその時間が無い。モーターを止める最速手段はバッテリに接続された電力ケーブルを切り離すことだ。当然ながら船は海水の中を進む。そして海水は導電性がある。その海水の中に大電流が流れるケーブルがさらされれば一瞬のうちに過電流が流れ、爆発する。そのため、電力ケーブルとバッテリーは直接接続されず、非接触給電が使われている。そしてさらに、接合部を絶縁性の液体で覆うことで安全を確保していた。普通であれば船をドックに収容し、しかるべき処置をしてからバッテリにアクセスするのだが、もちろん今はそんな暇は無い。幸いにも絶縁性の液体は海水よりもずっと軽く、コネクタは上方に設置されているため注意深く作業すれば何とかなるだろうとナガトは判断する。とはいえ、一歩間違えば大爆発だ。ナガトは慎重に溶断トーチを手に作業に取りかかる。
トーチで切り開いた隙間からライトを照らすと、電力ケーブルとコネクタが見えた。間違えて電力ケーブルを切断すれば大電流が周囲の液体を加熱し、大爆発を起こす。そうなればナガトはもちろんの事、耐圧殻も危うい。慎重に作業したため、予想以上に時間がかかっていた。スクリューの回転はずいぶん早くなり、既に水流を感じるまでになっている。背びれに固定している工具入れがスクリューに引き寄せられ、付け根が痛んだ。ブレーキがモーターに屈するまでそれほど長い時間はかからないだろう。ナガトはふとコウの声が聞こえないことに気が付いた。少し前まですぐに避難するよううるさく言っていたのに、今はぱったりと止んでいる。気にはなったが、目の前の作業を止めるわけには行かない。ナガトは油圧ジャッキを間に挟んでゆっくりと隙間を押し広げた。
ナガトがコネクタを固定するナットを外すためにレンチを取り出そうとしたとき、手が滑ってレンチを取り落とす。軽量のレンチはナガトの身体を揺さぶるほどに強くなった水流に飲み込まれ、スクリューに当たる。カンという甲高い音と共にレンチがスクリューにはじき飛ばされ、暗い海の底へと消えていった。あれがナガトの体なら今頃粉みじんになっているだろう。ナガトは気を取り直して、作業を再開する。
最後のナットに手を掛けたそのとき、ナガトは急に水流が強くなるのを感じた。それとともにがりがりという大きな音が聞こえてくる。ついに回生ブレーキが壊れ、モーターがその力の全てをスクリューに伝え始めているのだ。ナガトはコネクタを外すために上半身を船体の中へと突っ込む。掴めるところは十分にあるため、引きずり出されてしまうような事は無いが、腹部が船体の切断面にこすれて痛い。白黒の皮膚には真っ赤な線が引かれているだろう。ナガトは痛みに耐えながら最後のナットを外す。あとはコネクタを掴んで切り離すだけだが、大電流による電磁力のせいで容易には外れない。ナガトが力を込めようとしたとき、ガツンという衝撃音とともに船ごと揺さぶられる。動き始めた訓練船が海底の岩か何かにぶつかったのだろう。腹部が熱い。痛みはまだ来ていないが、ざっくりと裂けたかもしれなかった。ナガトは腹筋に力を入れて上半身を伸ばし、コネクタを両手でしっかり掴む。全身を使ってコネクタを引く。
――バンッ!
コネクタが外れた瞬間、コネクタの両端に大電流が流れて周囲の液体を気化させ、小さな爆発を起こした。電流はすぐ消えたが、反動でナガトの体は船外に押し出される。腹筋が再度船体にえぐられ、ナガトは悲鳴をあげた。噴気孔から泡が吹き出す。
ナガトの身体がスクリューに引き込まれていく。コネクタは確かに外れた。しかし、スクリューはその回転速度を落としながらもまだ止まってはいなかった。慣性が働いているからすぐには止まらない。緊急停止装置の摩擦ブレーキは既に焼損し、止めるだけの力はないようだ。真っ赤な血が、勢いよくスクリューに吸い込まれていくのが見える。その血にやや遅れてナガトの体も吸い込まれていく。アンカーとナガトを結んでいたワイヤがピンと張り、次の瞬間アンカーが外れた。ナガトは気力を振り絞り、尾びれを大きく振るったが焼け石に水だった。せめてバックパックの推進装置があればと思ったが、作業の邪魔になるので取り外していた。
『ナガト!』
万事休すかと思われたそのとき、ナガトの目に大きな推進装置を背負ったコウが見えた。一気に距離を詰めたコウはナガトの上半身を掴む。コウの腕が船体に抉られた腹の傷にまともに当たり、激痛が走った。
『痛えっ! もうちょっと優しく掴めよ!』
『出血はたいしたことないから我慢して。ご自慢の腹筋ならこれくらい大丈夫でしょうが。自業自得だよ』
恐る恐る傷に触れてみると確かに傷はそれほど深くはないようだった。溶断トーチを使ったことで、切断面がそれほど鋭くなかったことが幸いしたのだろう。ただ、広範囲にわたって細かく傷が付いており、それはもう痛い。
『コ……』
小さな泡を最後に、気嚢がからになる。腰に手を伸ばしたナガトは、そこにあるはずの圧縮空気ボンベと液体呼吸器の追加ボンベが無い事に気が付く。そういえば、船体に潜り込むときに外したのだった。液体呼吸器の方は余裕があるので問題ないが、気嚢がからになれば、クリック音は出せない。
『はいはい。これがボンベ。船はちゃんと止まったようだよ。だれかさんの無謀な行為のおかげでね。全く、私が助けに来なかったら今頃君は深海魚の餌だよ』
ナガトはボンベを受け取って、気嚢を圧縮空気で満たす。
『お前だって、あんなところに飛び込んで来るだなんて。俺がスクリュー止めてなかったら一緒に死んでただろ。無茶はお互いさまだ』
『それは君が私の話も聞かずに飛び出すからだよ。彼らを助けたい気持ちは良く分かったけど、冷静さは保ってよね! いつもいつも心配させてホントに!』
コウの冷たい目がナガトを睨む。これは相当怒っているようだ。
『ま、上手く行ったなら良かったじゃないか。終わりよければ全て良しってな!』
雰囲気を変えようと茶化したのが良くなかった。コウの噴気孔から細かな気泡が立つ。チリチリという不協和音にナガトは肝を冷やす。無意識のうちに背中を丸め、顔を伏せた。
『コウ、あの……すまん。謝る』
しゅんとするナガトの情けない姿を見てかコウが吹き出し、『出なくなるまでヤればゆるしてあげる』とナガトの腹をすっと触った。脇腹の痛みに、ナガトは悲鳴を上げた。
採掘船に戻ったナガトは、コウに傷の応急処置をしてもらうとすぐに訓練船を掘削船に接続する作業に入った。船のシステムが何者かのコントロール下にある以上、訓練船のモーターを稼働させるわけにはいかない。大型の掘削船は訓練船を丸ごと曳航して持って帰れるだけの浮力と推力をもっている。それに、大型の機材を運ぶ事も多いため、船との接続も容易だ。一番の問題はドームに帰るまでよりも、帰ってからだった。訓練船は教育局の船で、現在は教育局の元で訓練作業に就いているのだ。救助要請を受けたわけでもないナガト達は、それを無理矢理中断させる形で持って帰る形になる。当然、熱源管理局のドックへそのまま持ち帰るわけには行かなかった。そんな事をすれば受け入れた熱源管理局まで問題にされかねない。
作業を終えて自席に着いたナガトは、訓練船の船内映像を見て胸を痛めた。皆疲れ切った様子でだらりと尾びれを垂らして力なく持ち場に就いている。ようやく席に着いているといった様子だ。彼らイルカ種もシャチ種ほどではないが十分に海中に適応できる肉体を持っている。しかし、ごく少数を除いては数世紀以上もにわたって海中を泳いだことがないのだ。当然、いきなり大海に放り出されれば強いストレスを受ける。そしてその状況を作り出したのは他でもないシャチ種だった。
『彼らには申し訳ないことをしたな』とナガトは天を見上げる。網膜ディスプレイに映る乗務員が何処の誰なのか、ナガトは全く知らなかった。長期に渡る極度の緊張は心身を削る。そんな困難を見ず知らずの他人に押しつけることになった遠因はナガトにある。一方的にドームの外の世界を奪い取っておいて、今更頑張って適応しろというなどずいぶん自分勝手なことをしているとナガトは思う。
『権利には義務が伴う。当たり前のことだよ』
ナガトの言葉にコウが応える。保護者的な視線で乗務員を見るナガトに対し、コウは冷たい視線を投げかけていた。
『相変わらず手厳しいな』
『ナガトこそ、そんな甘ちゃんで政治家業なんて勤まるのか疑問だよ。ところでさ、妨害工作をしてきた犯人、目星はついてるの? 今はそっちの方が大事じゃない?』
コウの言うとおり、今は他人の心配をしている場合ではなかった。
訓練船の記録を詳しく調べたところ、訓練船はなんと最初から最後まで遠隔操作モードになっていたことが分かった。ナガトは今まで知らなかったのだが、一般的な船はイルカ種のIDを人として認識しないようだった。コウは特別な地位にあるためにちゃんと認識されるが、普通のイルカ種はそうではなかったようだ。船が操縦席にパイロットを認識しなければ、操縦者は居ないものとして自動的に遠隔操作モードになる。ただ、遠隔操作モードでは遠隔指令が優先されるだけで手動操船は禁止されていない。逆に、マニュアルモードでは遠隔指令は全く受け付けない。マニュアルモードはドックへの出入りや作業現場における位置合わせなど精密作業が必要なシーンでも使われるからだ。このことはつまり、操船モードの状態報告さえ書き換えれば、遠隔操作モードをマニュアルモードと誤認させる事は出来るということを意味する。
センサの数値や操船モードの状態報告を改ざんするだけであれば、それほど大がかりな工作は不要だ。操船モードを書き換えたのは、あくまでイルカ種がミスをしたという事にしたかったからだろう。明らかにイルカ種の権利拡大、つまり、ドーム外作業技術の開放を妨害するためだ。イルカ種が簡単な作業さえ満足に行えなかった、という事になればシャチ種世論は適正のないイルカ種にドーム外作業をさせるのは無駄という方向に傾く。もしこれで搭乗員に死傷者が出ていれば、イルカ種の中にドーム外作業は難度が高く、しかも危険という認識が広がりかねない。
『どう? 犯人は分かりそう?』
コウの問いにナガトは噴気孔を開く。
『状況を考えると、通信局の連中が一番怪しい。訓練船に遠隔操作の指令を送った信号は通信局がよく使うプロトコルだった。それに訓練船から教育局への通信は必ず通信局が管理する基地局を通る。傍受は簡単だし、そこでの改ざんも容易だろう。加えてあの訓練船は元々通信局所有の船で、イルカ種に対するドーム外作業訓練を行うことが決まった後で教育局に移譲されている。システムを書き換える事も出来ただろう』
『そしてなにより、君のお父様の出身局ってことだね』
『ああ。動機には事欠かないということだ』
ナガトは苦々しい表情を浮かべる。あんな無能に妨害されたと考えるだけで腹が立つ。父のキミトは[[rb:従子>じゅうし]]――自分の跡を継がない子――であるナガトに対して冷たかった。まともに会話した記憶などほとんど無い。ナガトからみて従親となるキミトは全くもって尊敬できる人間ではなかった。少年時代に記憶しているキミトはやたらと腰が低く、地位が高い者に対して常にぺこぺこしているという印象だ。それでいて子供のナガトやパートナーのナツメ、身の回りの世話をする者など下位と認識した者に対しては高圧的で、こんな人物がトップに立って大丈夫なのかと幼いながら思ったものだった。特にイルカ種に対する差別意識は強いらしく、イルカ種を単なる消耗品とみなすキミトを、ナツメは良くなじっていた。ナガトにはシャチ種としての誇りがそうさせているのではなく、むしろ自信がないからそんな態度を取っているように見えた。ナガトが子供の頃から仲良くしていたコウに対し、キミトが暴言を吐いたときなどは兄のキミヤスも巻き込んでの大喧嘩になった。キミトの言動はナガトがイルカ種の地位を向上を決意した一因でもある。それ以降、キミトとナガトが言葉を交わすことはほとんど無くなり、ナガトが上院議員という立場になったときも事務的な話しをしただけだった。それなりに社会が分かってからは、キミトの合理的で幅広い人間関係を構築する能力と徹底した政治的リスク排除の巧さには目を見張った。ただ、とてもああなりたいと思える人物ではない。
通信局はそのキミトが元局長をしていた部門だ。当然、かなりの影響力があるだろう。キミトは自分の実の息子がシャチ種の誇りを傷つける言動をしている事に対し、気を揉んで居るであろう事は容易に想像出来る。一刻も早く排除したいと考えているはずだ。
『警備局が犯人ってことはない? あの船、正確には通信局と警備局の共同保有でしょ?』
コウの言葉にナガトは首を振る。
『いや、警備局は白だ。警備局にも俺の施策に反感を持ってるヤツは多いだろうが、兄貴には逆らおうとは思わないだろう』
ナガトが父に代わって尊敬していたのは、兄であった。兄キミヤスはキミトにとって跡を継ぐ[[rb:主子>しゅし]]だったが、そのキミヤスも寵愛を受けていたということでは全く無かった。ただ、ナガトに対するよりはほんの少しマシだったという程度だ。キミヤスも父親を好いているようには見えなかった。キミトの意に反し、通信局ではなく警備局に入局したのが何よりの証拠だ。キミヤスがキミトに伏せて警備局の局長に連絡を取り、自身の誕生日に突然内定を得たことを伝えたしたときのキミトのゆがんだ表情は、それはもう痛快だった。単純で気分屋なナガトと違い、いつも冷静沈着かつ努力家で、周囲の信頼も厚い兄こそ尊敬するにふさわしい〝大人〟だった。そんな兄をナガトは大切な肉親として愛しているし、愛されてもいるとナガトは自信をもっていた。そんな兄がにらみをきかせている警備局の局員がリスクを犯してナガトを妨害するとは考えにくい。確かに今回の訓練を実施する法案を提出しようとした時には考え直すよう諭されたが、最終的には協力してくれた。そのキミヤスが、警備局の勝手な行動を許すとはとても思えない。コウもある程度は事情を知っているためか、ナガトの言葉に同意する。
『それもそうだね。そういえばさ、あれだけ一般局員を脅したら、そろそろキミヤスさんの耳にもはいっているんじゃない?』
『兄貴にはなにか手土産でも持って行くことにするよ。首謀者は通信局だ。やつらの計画では、座礁した訓練船は乗務員の更なるミスで全員死亡する事にでもなってたんだろう。遠隔操作モードでもさすがに生命維持系はいじれないが、センサの各数値を改ざんして間違えた対処をさせれば自滅させられる』
『そこに計画外の私たちが飛び込んできたってワケだね』
『そいつらが工作が発覚するリスクを取ってまで訓練船を無理矢理急発進させたのは、計画外の俺たちが突然現れて彼らを救助してしまうのを恐れたからだろう。少しの時間、閉じ込められましたってだけじゃあインパクトが無いからな。訓練船を浮上もさせずに無理矢理急発進させ、今度こそ本当に座礁させることで訓練船ものともイルカ種の乗務員を殺そうとしたんだろうさ。多少不自然にはなっても、死亡事故となれば訓練は確実に中止される。代償として訓練船は失われるが、所詮は教育局の損害だから通信局に痛手はない。口封じのために見舞金を出す程度だろう』
『だけど証拠がないよね』
『ま、この訓練船を調べるしかないだろう』
そうは言ったものの、ナガトはあまり期待はしていなかった。ナガトが自ら調査できるならまだしも、この訓練船は教育局に返さなければならない。通信局が教育局に圧力をかければ例え証拠が見つかっても消される。悔しいがそれが現実だった。ただ、乗務員を無事に救出できたことで少なくとも大事故として報道される事は無くなった。それで良しとするしかない。
訓練船をつり下げたままドームへ戻ったナガト達は、一度教育局のドックへ入港して訓練船を切り離し、熱源管理局ドックへ再入港した。事件の真相を突き止めるためにも訓練船は確保しておきたかったのだが、訓練船をそのまま熱源管理局が接収するのは問題が多すぎる。たとえ無理矢理奪い取って証拠が見つかっても、船を横領するためのでっち上げだと言われるのがオチだ。それなら、教育局の顔を立て、恩を売る方がよいとの判断だった。教育局は今回の事故を隠蔽し、世間に公表するということはおそらくない。それはナガトに取っても好都合だ。
傷の処置を済ませた後、ナガトは今後迷惑を掛けるであろう熱源管理局の局員にはなるべく詳細に経過を報告する。通信局を名指しで犯人扱いすることはしないが、噂として広がるのは仕方ない。このドームの一般的な公務員の例に漏れず、熱源管理局員も他局の悪い噂は大好きだ。ナガトの出来るせめてもの嫌がらせだった。
熱源管理局を後にして数分後、残務処理のために事務所へ戻ろうとしていたところで何者かに呼び止められる。振り返ってみると、ナガトに負けず劣らず大柄なシャチ種の青年がこちらを睨み付けていた。背筋をぴんと伸ばし、ナガト達を威嚇するようにいくつもの傷が入った背びれを見せつけるように歩いてくる。深い紺色をした制服を着ていたため、すぐに警備局の局員だということが分かった。コウがナガトを護るように間に入る。ナガトはそれを制して前に出た。警備局員が尾びれを床から離していないのを見ての行動だった。今すぐ襲いかかってくると言うことはないだろう。
「上院議員のナガトさんですね。警備局巡視部Nエリア担当課課長のクルホ=イガワです。先ほどは私の部下がずいぶんお世話になりました」
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その声にはとげとげしいものが混じっていた。ナガトは右肩に取り付けられた階級章に目を走らせる。一本の横線に星印が一つ。警備局の階級付けでは課長クラスの局員、つまり現場での指揮官だ。察するにナガトが兄の名を出して脅迫した警備局員の上司かなにかなのだろう。ナガトも元々は課長として現場の指揮を執っていた人間だ。部下を思いやる気持ちは良く分かる。部下がいわれもない理由で権威を振りかざす議員から脅迫を受けたとあっては、いてもたっても居られなくなったのだろう。
「今回の件では君たちには迷惑を掛けたな。そのことについては謝る。だが、一刻を争う事態だったのは理解して欲しい」
「ええ、おそらくよっぽどの緊急事態だったのでしょう。だからといって、上役の名を出して強行突破するのは筋が違うとは思いませんか? ドーム外の警備は全て私どもの責任で行っております。たとえ上院議員であっても、勝手に逸脱して良いわけがありません。それに緊急を要する事態であれば、二次災害を防ぐためにもなおさら私たちと情報共有を行ってもらいたいところですね。その緊急事態とやらも本当にそうだったのか分かりませんし、私たちに一言も相談がないとはあまりにも不法ではないでしょうか」
クルホは脇腹に巻かれたナガトの包帯に視線を向ける。いかにも勝手に行動するからだとでも言いたげだ。無意識か、それとも意識的か、ぴたぴたと尾びれが床を打っている。なるべく冷静にと勤めてはいるようだが、熱しやすく、正義感が強いタイプのようだ。なかなか好感をもてる人物だ。
「クルホさん、なにか勘違いがあるようだ。船が座礁した事は警備局も知っていたはずだ。それどころか、救援要請も出されている。残念ながら、救援要請は断られたらしいが。もっとも、救援要請は通信局も断ったようなので、あなたたち警備局だけが悪いということではないとは思う。こういったいきさつもあって、私たちは人道的な見地に立ってしかたなく自主的に救出に向かったんだ。掘削船は熱源管理局の正規登録船だし、緊急出動の許可も熱源管理局局長から得ている。あなたの言うとおり警備局はドーム外を航行するほとんどすべての船に停船を命令することは出来る。ただ、今回の事例では我々にその停船命令に従わなければならないという義務が無いのも確かだろう? 人命救助を妨害するのが本当に正しいことだとあなたは思っているのかい? おそらくそうじゃないだろう。私は既に話が通っているものとして行動し、あなた方は情報伝達の遅れでそういった経緯を知らなかった。だから私は一刻も早く救助に向かうために、〝ほんの少し〟強引な手を使わざるを得なかった。こういうことでどうだい?」
ナガトはそう一方的にまくし立てると、クルホに笑顔を向けて踵を返した。ナガトはどういうことですかと説明を求めるクルホの声を無視し、これで話しは終わりだとばかりに尾びれをぶんと一振りすると事務所への歩みを再開した。現場の人間にはこういった裏事情は伝わらない。単に無視してもよかったのだが、裏がある事を匂わせたのは部下想いのクルホに対するちょっとしたねぎらいだった。
本作の主人公。シャチ種とイルカ種の対等な関係を築くべく日々奮闘している。
大気維持局の課長でナガトの恋人。暴走しがちなナガトのブレイン役。
ナガト、コウに育てられる性欲全開の男の子。可愛いけどしたたか。
ナガトの主親で熱源管理局局長。イルカ種に理解があり、ナガトを支援する。キミトとは別れ、今はミサキと付き合っている。
ナガトの従親でドームの知事。ナガトとは敵対関係にある。
ナガトの兄で上院議員。エリートと呼ぶにふさわしい能力の持ち主でナガト憧れの存在。
大気維持局の課長でナガトの恋人。暴走しがちなナガトのブレイン役。
コウの主親で大気維持局局長かつイルカ種最高評議会議長。ユミとの関係を解消し、今はナツメと関係を持つ。
コウの従親で食料資源局局長かつイルカ種最高評議会副議長。今は独身。
ナガトをサポートする専任秘書。甘党でビビり。
ナガトの親友で通信局勤務。色仕掛けを得意とし、有益な情報をナガトにもたらしてくれる。