キミヤスの協力を得ることが出来たナガト達は、つかの間の平和を楽しんでいた。そんな中、ナガトは不気味な音を聞く。その音をきっかけに、執行部ではナガト達を追い詰めるある計画が進んでいた……。
キミヤスとの会合から一週間と経たないうちにその成果が得られた。訓練船に対する妨害工作を行っていた人物が続々と逮捕されたのだ。犯人は通信局と警備局の職員だった。首謀者はシャチ種の通信局職員で、その人物が中心となって妨害計画を立てている。その計画を実行したは警備局関連団体の職員複数名で、全員イルカ種だ。さらには教育局にも協力者が数名居たようだ。ナガトにとっては想定を遙かに上回る成果で、ありがたい事だった。むしろキミヤスの対応が早すぎて主流派を刺激しはしないだろうかと心配になるほどだった。通信局は知っての通り知事キミトの出身局だ。その人物は「個人の政治的思想から」と動機を語っているらしいが、キミヤスもナガトもそれを信じてはいない。十中八九、知事が絡んでいるだろう。一方で、同じ通信局のヨシヒトからもたらされた情報では、その人物はイルカ種に対して差別的な発言はあったものの、執行部に通じているようには思えなかったらしい。ナガト達が救助した訓練船座礁事件についても追求されたもののそれに関しては関与を全面否定しているらしい。最も、訓練船座礁事件はイルカ種乗務員の不備による「事故」として既に処理済みのため、キミヤスもこれ以上追求するのは難しいだろう。
ともあれ、この逮捕騒動以降は妨害工作がなくなり、ナガトが改めて提出したイルカ種に対するドーム外作業教育再開の議案も問題なく承認された。残る懸念事項である暴動計画の方もリーダー格の人物が警備局に異動され、今のところは平穏無事に推移している。あまりにも順調に事が進んだためか、コウはどこかに落とし穴があるのではと散々心配していたが、結局何も起こらないまま鎮火したようだ。問題があらかた片づいたこともあり、キミヤスからは未入植ドームの調査計画を本格的に進めるためにもう少し詳細な情報が欲しいと要請が来た。通信局が張り巡らせたソナー網を全て把握して対策を考えるのは不可能なため、対処すべき場所を少しでも絞るために正確なドームの位置を教えて欲しいらしい。これに対して、万が一洩れれば致命傷になりかねない重要な情報であることもあって、当初はイルカ種評議会が開示に難色を示していた。だが、コウが何度も説得を重ね、最終的には情報提供が許可された。通信局対策はキミヤスに任せることにし、ナガト達は未入植ドームの調査と開拓準備のための装備、人員の確保を本格的にスタートさせていた。
何もかもが順調に進み、余裕が出来たこともあって久々に休暇をとることにしたナガトとコウは、ユウキを連れて人工海洋ホールへと向かっていた。人工海洋ホールはドームの最外周にあたる工業区画にあり、工場から出る廃熱を利用して海水を温め、地球の〝海〟を再現している。人工海洋ホールはEエリアにあり、ナガト達が住むWエリアとは真反対に位置している。リニアレールカーでも行けるのだが乗換が面倒なため、珍しく自家用車を使っての遠出だった。本来なら今頃は砂浜に寝転んで楽しい休暇を過ごしているはずだったのだが、ナガトはまだハンドルを握っている。
「ねえねえ、まだ? まだ着かないの?」
渋滞に嵌って以降、ユウキはずっとこの調子だった。相手をするのも面倒だが、放っておいたらうるさくなる一方だ。
「大体さ、なんでこんなに面倒な作りにしたの? あんな小さいトンネルしかなかったら渋滞するに決まってるじゃん」
ユウキの視線の先には、NエリアとEエリアを繋ぐ二車線対面通行のトンネルが見える。高さ五十メートル、幅数キロにも達する巨大なセラミックス複合素材で出来た強固な隔壁に対し、トンネルは高さ四メートル、幅は十メートル強しかない。遠くから見れば巨大な壁に空いた極小の針穴だ。ナガト達が今走っている片側四車線の主要道路と比べても圧倒的にキャパシティが不足している。早朝に出たということもあって、WエリアとNエリアのトンネルは渋滞もなくすんなり抜けることが出来たのだが、Eエリアに抜ける二本目のトンネルでは見事に渋滞に捕まってしまった。トンネル付近は手動運転が禁止されていることもあり、本当にやることがなく暇だ。かといって周囲を見渡しても少数の隔壁管理施設を除いて何も無い。不満を垂れるユウキに対し、珍しく機嫌の良さそうなコウが理由を説明する。
「それはねユウキ、防災のためだよ。もし、どこかのエリアが水没したとしてもあのトンネルをふさげば他のエリアは助かるでしょ? いざとなったら閉鎖できるようにわざと小さく作られているんだ。そのために、生存に必要な最低限の施設は各エリアに分散して配置されているんだよ。ドームを管理する設備はセントラルタワーに集約されているけど、緊急時に代用できる補助設備は各エリアにもあってね、ドーム外へ出るためのドッグも……」
ご機嫌に話を続けるコウに対し、ユウキは頬を膨らませる。
「あー、わかった。わかったから、今日はそう言う真面目な話は止めようよ」
「なんだ、せっかく色々教えてあげようとしたのに。そろそろ期末考査じゃないの?」
「それはそうだけど……、大体それくらい知ってるよ」
これ幸いとナガトは頭部端末を操作して中等科の試験スケジュールをコウに転送する。期末考査は二週間後だった。ついでに試験範囲とユウキの成績も合わせて転送しておいた。これでユウキの相手はコウがしてくれるだろう。ナガトはトンネルを抜けたときにアラームを鳴らすよう頭部端末に指示し、シートを倒して横になった。
トンネルを抜ければ渋滞もなく、すんなりと人工海洋ホールにたどり着くことが出来た。周囲にはどれも似たような工場が並んでいる。平日であれば多くの作業員が行き来しているのが見えるはずだが、休日の今日はほとんど人が居ない。聞こえるのは機械の重低音くらいで静かなものだ。
「ガラガラだね」
空きばかりが目立つ駐車場を見てユウキがつぶやく。尾びれを垂らして少し疲れたそぶりを見せているのは、コウの車内講義をずっと受けていたからだろう。ユウキの言うとおり、駐車場にはナガト達の車を含めて十数台しか停まっていなかった。職員の自家用車も含めると客としてきているのは数台かもしれない。
「それが狙いでココにしたんだがな」
伸びをしながらナガトは言う。人で溢れかえる動植物園や商業区画とは違い、この人工海洋ホールは人気がなかった。多くの住人にとって工業区画は遠く、仕事ならまだしも休みの日にわざわざ来るような場所ではなかった。そして何より、ドームの外には果てしない海が広がっているのに、ドーム中の人工海に興味が湧くはずもない。泳ぎたいのであればそこら中にプールがあるし、魚が見たければドーム外にある海洋農場の方がずっと規模が大きく美味しいものが食べられる。魚の種類は人工海洋ホールの方が多かったが、商業区画にある水族園に展示された色鮮やかな魚に比べると地味だ。研究施設としては重要だったが、観光施設としてはなんとも中途半端なのだ。それでもナガトはその人の少なさと、大きな水槽で泳げるという海洋ホールが好きだった。
人工海洋ホールでは水族園のように、服を着たまま様々な種類の魚を眺めることも出来たが、それでは半分も楽しめているとは言えない。海洋ホールの魅力はなんと言っても大水槽での素潜りだった。大水槽と言ってはいるが、その規模は水槽というより、〝小さな海〟と言った方が実態に合っている。本物と比べると砂粒のようだが、四百メートル四方の広さがあり、深さ五十メートルに達する超巨大水槽は迫力満点だ。ただ大きいだけではなく多くの魚が飼育され、それ自体で一つの生態系を作っている。サメやエイなどの大型魚類も飼育されていた。残念ながら、ナガト達の第二の先祖である海獣の類いは飼育されていなかったが、それは播種船があえて再生しなかったためだ。その播種船が破壊されている以上、ナガト達がその姿を見ることはないだろう。原生人類の遺伝情報も失われているため、現人類は両親どちらもに出会えないと言うことになる。他の播種船の子孫が来訪してくれば出会えるチャンスもあるかもしれないが、まず期待は出来ないだろう。祖先には出会えないものの、砂浜や干潟、浅瀬などは再現されており、見知らぬ故郷の雰囲気くらいは味わえる。ナガトとコウは何度もデートで足を運んでいるが、ユウキは初めてだ。車の中では散々〝お勉強〟をさせられ、ストレスが溜まっていたのか、水着に着替えると一目散に砂浜に走り出していった。
「元気だねえ」とつぶやくコウに「何年寄り臭いこと言ってるんだ」とナガトが応える。ドーム外に出るときとは違い、保温や怪我の心配がないことから、二人を包む布は最小限に留められている。ナガトはちらちらとコウの肢体に目を向けるが、コウはなしのつぶてだった。デートで来たときはよく水中で交わったりしたものだが、今日は流石に難しいだろう。更衣室を出るとすぐ砂浜になっており、ユウキはもう波際で水と戯れていた。見渡すと他には数組の家族連れと、工場労働者と思われるイルカ種の若者が数人居るくらいだった。これでも多い方だろう。砂浜の上にはお決まりの人工青空が広がっている。〝入道雲〟が描かれているので、今日は夏をイメージしているのかもしれない。当然ながら海底ドームには四季など存在しない。夏というのも知識として知っているだけで、実感はこれっぽっちもなかった。この星の〝地上〟は真夏も真っ青の地獄のような暑さだろう。人工の空に、人工の海。そのむなしさが人々にこの施設を嫌煙する理由なのかもしれないとナガトはふと思った。
「どうだ、久しぶりに競争でもしてみないか? ここからスタートして、向こう岸にタッチ、そしてまたここまで戻ってくる。ざっと見て四百メートルくらいだろう」
大水槽のほぼ中央に浮かべられたブイで、ナガトはコウに提案する。過去に何回かプールで似たような勝負をしているが、ナガトはコウに二連敗中だった。
「べつにいいけど、何賭けるの? また私の部屋掃除でもしてくれるの?」
「今度は俺の部屋が綺麗になる番だ。ココはプールと違って海水だし水流もある。いつものようにはいかないから覚悟しておけよ!」
そんな二人の会話に、ユウキが割って入る。
「えー、掃除とかいつも僕がしてるじゃん。じゃあさ、もし僕が勝ったら二人で相手してよ!」
「お前もやるのか? ま、いいか。フェラでもファックでもお前が枯れるまで何でもしてやるよ」
「なんだよ馬鹿にして」とへそを曲げるユウキを無視して、ナガトは頭部端末にカウントダウンを指示する。
「じゃあ、カウントダウンがゼロになったらスタートだ」
――5、4、3、2、1
「うわっ!」
カウントダウンがゼロになると共に、ナガトとコウの口から悲鳴が漏れる。ユウキがいつの間に手にしていたのか、大きなタコを二人の顔に投げつけてきたのだ。剥がそうとするも、吸盤がべったりと張り付いてなかなか取れない。生臭い臭いが不快そのものだった。
「待てや、コラ!」
ナガトがごろつきのような怒声を発したとき、ユウキは既に五十メートル以上の距離を稼いでいた。ナガトはすぐさま尾びれを振り上げ、水中に潜った。水流を乱さないように両手、両足を胴体にぴたりと付け、一気にトップスピードへ達する。その間にもクリック音を盛大に放つ。エコロケーションのためではなく〝威嚇〟のためだ。ユウキも同学年の間ではトップレベルの泳力を誇ってはいるのだが、相手は脂ののったシャチ種の成人男性だ。すぐに両者の距離は縮まり、水槽の対岸に着く前に手が届きそうなくらいまで追い詰める。もう少しで足を掴めるというところでユウキが突如方向転換し、右へと逸れる。いつの間にか競走から追いかけっこに変わっていた。速力では勝っても小回りがきかない自分では後を追っても追いつけないと判断したナガトは、あえて方向を変えずに深く潜り、水槽の壁面にぶつかる直前で身をひるがえす。エコロケーションでユウキの位置を確かめると、壁面を蹴ってユウキの推定進路に向かう。尾びれで生み出される推進力に、血流で暖められた脳油が生み出す浮力が合わさり、一度はひらいた二人の距離が一気に縮まる。ナガトが手を伸ばしたそのとき、ユウキは尾びれを振るって水面へと飛び出した。ナガトも後を追うが空中では体重の差が大きい。ユウキの身体はナガトの遥か上にあった。
ナガトが大きな飛沫を上げたのと時を同じくして、ユウキの悲鳴が水中に鳴り響いた。悲鳴のする方へと目を向けると、後ろ手に関節をきめられたユウキがばたばたと無駄な抵抗をしていた。懸命に尾びれを動かして振りほどこうとしているが、後ろに控えたコウが関節を締め上げると観念したようだった。
『あんな喧嘩の売り方するだなんて、名前の通り勇気あるね』
あえて音量を抑えたコウのクリック音が漏れ聞こえてくる。どうやら、ナガトは囮として使われていたようだ。ナガトのエコロケーションの音が大きすぎて、ユウキはコウをすっかり見失っていたのだろう。獲物を捕らえたコウはというと、ユウキに向けて何かお説教をしているようだ。当のユウキはと言うと、コウの話を聞く素振りも見せず、水面を見上げている。
ナガトが待ちくたびれてきたとき、ふとユウキがぐったりとしているのに気が付いた。
『ユウキ溺れてないか?』
『え?』
事態に気が付いたコウが、慌ててユウキを海面へと引き上げようと締め上げていた腕を開放する。すると、いままでぐったりとしていた少年が突如として息を吹き返し、一目散に水面を目指す。
『あの野郎!』
悪態を吐いた二人が、同時にユウキを追いかける。数秒のハンデがあった前回とは違い、今回はユウキにとって分が悪かった。水上に顔を出すと同時にあっけなく捕らえられる。
「申し開きはあるか?」
ナガトが大口を開けて睨み付ける。
「ハンデだよ、ハンデ。二人とも大人なんだからさあ、そんなに本気にならなくても……」
軽口を叩いていたユウキが、コウの鬼の形相を見て黙った。ナガトだけが相手であればげんこつの一つで済んだだろうが、コウの修正は帰りの車内では終わらないだろう。
「まあ、俺たちに喧嘩を売るって事はそういうことだ。今夜は覚悟しておけよ。にしてもアホの相手をしてたら腹が減ったな。焼きそばでも食いに行くか」
「いいね、焼きそば! 僕は大盛りで!」
反省のかけらも見せない少年のももをナガトが思い切りつねる。
「「お前は飯抜きだ!」」
少年は二人のハモりにも何処吹く風で、海の家へと一目散に向かっていった。
昼食後、三人は海底――正確には水槽の底――を探検しようと言うことになり、熱帯エリアの海を再現した別の水槽に移動した。迫力はあるものの、地味な色をした大水槽とは異なり、鮮やかな色を放つ魚や、色とりどりの珊瑚が飼育され、ずいぶんと賑やかだ。人気もこちらの方が高いらしく、家族連れ以外にもカップルと思われる二人組や、学生のグループが数組泳いでいた。懲りもせず一目散に駆け込もうとするユウキをナガトが止める。
「せっかくだし、水中呼吸器の練習でもしよう。いちいち息継ぎするのも面倒だろ?」
肩を掴まれたユウキが、うへえと言って顔を歪める。
「これくらいの深度なら普通の圧縮酸素でいいじゃん。アレって苦手なんだ」
「だから練習させてやるって言ってんだよ。ほら、さっさと行くぞ!」
水中呼吸器は肺をフルオロカーボン系の液体で満たして呼吸する装置のため、胸筋に負担がかかる上、不快感も強い。特に初心者はすぐに液体を吐き出してしまうため、無理矢理飲み込ませる必要があり、苦手なものも多い。呼吸器が必要なのはドーム外作業の場合くらいなため、イルカ種が練習する機会はほぼなかった。しかし、ドームの外へ出るには呼吸器無しでは話にならない。そういう事情もあって、ナガトは機会を見つけてはユウキに訓練させるようにしていた。逃げようとするユウキを引きずって更衣室へと連れて行き、水中呼吸器を身につけさせる。回数は少ないものの、既に練習を始めてから二年ほど経っていることもあって、人の手を借りずに身につけることは出来るようになったようだ。
「問題ないか?」
ナガトが聞くとユウキが頭を横に振る。血中酸素量を確認していたコウが顔を上げた。
「バイタルに問題は無いよ、ユウキ。もし問題があるなら、いったん吐き出した後、もう一回飲ませてあげるけどどうする?」
声を凄ませるコウの態度に、ユウキはしぶしぶといった風に右手でOKのサインを出した。そのまま先に水槽に入って待っているように言いつけ、ナガトとコウも呼吸器を身につける。手早く互いの器具とバイタルデータをチェックする。身につけている頭部端末は耐塩耐圧処理の行われていない市販品のため置いてゆく。冷たいドーム外とは違ってウェットスーツを身につける必要がないので準備はすぐに終わった。噴気孔用の圧縮空気缶をベルトに付けて水槽に向かった。
熱帯水槽の浅い場所では珊瑚の森が広がり、珊瑚と珊瑚の間を色とりどりの小魚が泳ぎ回っていた。ナガト達が珊瑚に近寄ると、最初は警戒したのか一斉に自分たちの隠れ家へと消えてしまうが、すぐに警戒心を解いて近づいてくる。尾びれをそっと振ると青や黄色の小魚が群がり、ちょんちょんと突いてくる。何かを探っているのか、それともエサだと勘違いしているのかは分からないが、こそばゆい。ユウキなどは身体の方々を突かれる度に大騒ぎして暴れ回っていた。にもかかわらず魚たちが逃げないのは浅い場所には大型の捕食者が居ないからだろう。コウはというと、珊瑚の切れ目に足を付けては方々に居るナマコをひっくり返している。その様子があまりに気だるいため、それがコウなりの楽しみ方だというのを理解するまで時間がかかったことを思い出す。出会った当初は機嫌が悪いのかと気になったものだ。
しばらくの間浅い海の魚と戯れたあと、少し深い場所へと移動する。ナガト達の姿を見つけてか、ナガトの腕ほどもある魚が人工の岩場の陰に隠れるのが見えた。しばらくじっとしていても姿を現わさない。図体の割に珊瑚礁にいた小魚よりも警戒心が強いらしい。ユウキはと言うと、そんな魚をわざわざ追い回しては岩場の中に逃げられている。水槽の底でその様子をぼんやりと観察していると、ユウキの背後にこっそり近づきつつあるコウと目が合った。左手では白と黒の縞模様がうねうねとうごめいている。ウミヘビだった。それも一匹では無く、四、五匹はいる。その意図を察したナガトも、コウに続く。ユウキはと言うと、小さな隙間に逃げた魚を探すのに夢中で背後に近づく影に全く気が付く様子もない。隙を見てナガトが少年を羽交い締めにすると、コウが目の前にウミヘビを放つ。突然目の前に現われたウミヘビの異形に、ユウキが暴れる。地上であれば悲鳴が響き渡っていただろう。悲鳴の代わりに噴気孔からごぼごぼと空気が漏れ出る。
『どうした、ユウキ。ウミヘビは嫌いか?』
そう言いながらナガトが、岩場に逃げ込もうとするウミヘビを捕らえてユウキの目の前にもってくる。つい先日行った動植物園で、海の生物には毒を保つ者が多くおり、その中でもウミヘビは強力な毒を持っていることは学んでいるはずだ。普段は臆病な性格をしているウミヘビも、こんな手荒な扱いを受ければいつ襲いかかってきてもおかしくない。ナガトとコウは先ほどのお返しだとばかりに、ユウキをウミヘビ攻めにする。
『無毒化してるから安心しろ』
そろそろネタばらししてやるかとナガトがそう言ったが、ユウキは一向に暴れるのを止めなかった。その様子を見たコウがつぶやく。
『ねえ、ナガト。ユウキはまだ水中会話は無理じゃない?』
『そんなことないだろ。前に教えたはずだ』
水中で他人に意思を伝えるには、頭部端末経由でメッセージをやり取りするかクリック音で直接会話するしかない。中でもクリック音での会話は意味をくみ取るのに鍛錬が必要なため、自習しておくように言いつけておいたのだ。
『練習をサボっていたのなら自業自得だね。そうだ、水着の中にウミヘビ入れてみる? 意外と気持ちいいかもよ』
そう言いながらコウがウミヘビ片手にユウキの水着へ手を掛ける。とたんにユウキの動きが激しくなり、必死に尾びれを振って逃れようとする。同時に噴気孔から多量の泡が吹き出した。
『ごめ……さい! 謝る……許して!』
ゴボゴボという音の間に、なんとか意味がくみ取れる。
『なんだ、ちゃんとしゃべれるんじゃないか。まあ、それはそれとしてコウ、やってやれ』
『なん……やめ……っ!』
少年の抵抗むなしく、数匹のウミヘビが水着の隙間から入っていくのが見えた。
「どうだ、ユウキ。ズルをしようとすれば酷い目に遭うってことが分かっただろう?」
ぐったりと砂浜に身体を横たえたユウキに、ナガトが声をかける。
「だからって、……僕、ヘビ苦手なのに……」
よっぽど堪えたのだろう、ユウキはぐったりとしたままだ。
「自業自得だよ、自業自得。今度やったらあそこの中にウミヘビ入れてやるから覚悟しておいてよ」
コウがそう言い放ち、いつの間に用意したのか砂浜の上にピクニックシートを拡げるとストレッチを始めた。
「あのな、ユウキ。お前は知らないかもしれないが、アイツはタコが苦手なんだ。ナマコとかウミウシは平気みたいだが、タコは絶対にNGなんだ」
「ふうん……そうなんだ」
まるで新たな武器を手に入れたという口ぶりでユウキが返事をし、身体をさっと起こした。ついさっきまでの疲れっぷりが嘘のようだ。ナガトがいたずら少年の次なるアクションに備えようとしたそのとき、かすかな重低音が聞こえた気がした。震動はほとんど感じず、目の前に広がる水槽の水面にも変化は無い。コウも何かを感じ取ったのか、足を止めている。
「事故かな?」
コウの問いかけに首を振る。
「わからん。地震かもしれないが、気にはなるな」
コウから手渡された頭部端末を身につけ、マサヒトへ回線を繋ぐ。
『今、Eエリアの人工海洋ホールにいるんだが、不自然な音を感じた。何か情報は入っていないか?』
『音……ですか? そうですね……』
『超遠距離通信で使うような低音だ。工業地帯で何か起こってないかが気になる』
少しの間があって返事があった。
『ええっとですね、どうやら地震があったみたいですね。無感ですが。そこはデカイ水槽があるんで、感じやすかったのかもしれませんね』
『……そうか。分かった。なにか気になることがあったら連絡してくれ』
通信を切ったナガトが、二人に地震があったことを伝える。海底平原のど真ん中に築かれたドームでは地震など滅多なことでは起こらず、起こったとしても海底と一体化しているために感じることはまずない。にもかかわらず音という形で認識できたのは大水槽で共振でも起こったからかもしれない。地震で何か不具合が起こるとはまず考えられないが、なんとなく興ざめなのは確かだった。
「そろそろ帰るか。これ以上遅くなるとまた渋滞に巻き込まれる」
ナガト達のすぐそばに居た家族連れも帰宅準備を始めたようだった。
セントラルタワーにある執務室でナガトはある調査結果の報告を受けていた。動揺のためか、資料を持つマサヒトの手が震えている。ナガトがせっかく作ったコーヒーも手つかずのままだ。その調査は、懇意にしている同僚議員から〝噂話〟として聞いたことの真偽を確かめるために命じたものだった。ナガトは大きくため息を吐いてうなだれる。キミヤスの協力で好転したかと思った事態が一気に最悪の方向へと向かっていた。
「ナツメ熱源管理局長、ミサキ大気維持管理局長、ユミ食糧資源局長にアポイントを取ってくれ。緊急の会合を開きたい。後は……」
「コウさんですね」
「ああ、コウにも連絡してくれ。場所はそうだな……あまり目立たないところが良い。タワー内は避けた方が良いだろう。具体的にはコウと相談して決めてくれ。そういったことはアイツの方が詳しいはずだ」
そう言うとナガトは立ち上がり、扉へと向かう。
「どちらへ?」
「すまん、ちょっと身体を動かしてくる。頭を冷やさないと考えがまとまらんからな」
マサヒトは「分かりました」と小さく応え、頭部端末に向かってクリック音を立て始める。部屋を後にしたナガトは、プールへ向かう途中何度か兄に連絡を取ろうと試みたが、全く返答がなかった。今までも多忙のせいで連絡が遅れることはあったが、数ヶ月にもわたって全く連絡が取れないというのは異常だった。
殺風景なイルカ種評議会議場の一室にナガトとコウ、三局長の計五人が集まっていた。セントラルタワーの豪奢な議場とは違い、実用重視な造りの会議場はずいぶんくたびれている。塗装が所々剥げ、むき出しのコンクリートが覗いている。年季の入った丸テーブルを五人が囲んで座っている。ナガトの右隣にはコウ、その正面にナツメ、ミサキ、ユミの三局長が腰を下ろしていた。真正面のシャチ種女性が熱源管理局長のナツメ、その右隣に座る小柄なイルカ種の女性は大気維持管理局長とイルカ種評議会議長を兼務するミサキだ。色白で年齢を感じさせないかわいらしさがあるが、中身はナツメに負けず劣らずの気が強い。ナガトはナツメとミサキがつかみ合い一歩手前の激しい口論になっている場面に何度も遭遇している。二人からすこし距離を置いて座っているのは食糧資源局長のユミだ。ユミは評議会の副議長を兼務しており、ミサキとは婚姻関係にあったが今は解消して独り身になっている。コウの怒るとより冷静になる気質はこのユミから受け継いでいるのだろうとナガトは思っていた。
場が静まったところでナガトが口火を切る。
「この度はいきなり呼びつけることになってしまってすみません。今回、お呼びしたのは私がとある議員から情報を入手し……」
「前置きはいいわ。緊急事態なんでしょ? 早く始めましょう」
口上を述べようとするナガトに、ナツメが口を挟む。ナガトは少しムッとしたが、ここで親子喧嘩をしても時間の無駄だ。
「ではお言葉に甘えて。端的に言うと、未入植ドームの件が外部に漏れた可能性があります。どうやらギョクツドーム執行部の中で、開拓者を徴募して件の未入植ドームを開発するという計画が持ち上がっているようです」
その言葉にナツメが眉をひそめる。ただ、反応を見せたのは彼女だけだった。
「ずいぶんと急な話ね。未入植ドームの件を聞いてから半年も経ってないんだけど、その話本当?」
疑問を呈すナツメにミサキが応える。
「少なくとも、執行部に情報が漏れ伝わったのは本当よ。発覚した理由はコウが説明するわ」
指名されたコウが話を継ぐ。
「私たちが外部に未入植ドームの情報を出すとき、そのデータにはデジタル署名と定期的にデータの所在を発信する一種のスパイウェアを組み込んで出すようにしています。イルカ種評議会の管轄外に出た情報は三つ。ナガトに渡したものとナツメさんに渡したもの、それにキミヤスさんに提供したものです。そのうち、キミヤスさんに提供したデータが通信局に渡ったようです」
その言葉にナツメが息を吐いた。
「なるほど、キミトが知ったってワケね。で、それが確認されたのはいつ?」
「一週間ほど前です」
「流石に一週間じゃ議論も何も出来ないとは思うけど。予算もそうだし、開拓者を徴募するだなんて、いくらなんでも性急すぎる。あの人がそんなに早く動けるとは思えないし……」
話を遮ろうとするナツメをミサキが止め、コウに続きを促す。
「あくまでこちらが把握できたのが一週間前というだけで、情報自体はもっと前から漏れていた可能性があります。情報が流出した自体、方針転換を要するレベルの事態ですが、問題はその執行部が進めようとしている方策にあります」
コウが一度言葉を切り、軽く息を吸う。これからはイルカ種評議会の二人も初めて聞く話になる。ナガトも自然と背びれに力が入った。
「執行部はどうやら一部の部局を解散させて再構成し、開拓担当として執行部傘下に組み入れようとしているようです。その、部局というのは今お集まりになっている三局です」
「解散……ですって!?」
ナツメが吠える。ミサキとユミも顔を強ばらせていた。
「……つまり、元々反抗的だった私たち三局を処分する口実に未入植ドームを使おうとしている、とナガトさんは言いたいわけかしら?」
今まで黙り込んでいたユミが口を開いた。ナガトが頷きながら応える。
「はい。俺とコウはそう考えてます。今までは俺だけが標的だと思ってましたが、良い武器が手に入ったので敵対勢力を一掃しようと画策しているのだと推測します。未入植ドームの開発には大きなリスクがつきまといます。そのリスクを俺たちに押しつけ、もし上手くいけば執行部の成果、失敗したとしても責任を押しつければ痛手を負わなくて済むと考えているんじゃないかと」
「ちょっと待って、ナガト。さっきから執行部が動いている前提で話しているけれど、それは本当なの? データが執行部に渡ったとしても、未入植ドームが存在するってことを素直に信じると思う? 開拓をいざ始める段階になって実は未入植ドーム自体が存在しませんでしたじゃ済まないわよ。少なくとも確実に存在すると確認できない限り、執行部が動くとは思えないわ。だいたいミサキ達だって実物の確認はしていないんでしょ?」
ナツメがそう言って三人のイルカ種を順に見る。ユミがこくりと頷く。ナガトは頭部端末に指示し、一枚の書類を転送した。
「今お送りしたのは兄の関係者から入手した執行委員会での起案書です。未入植ドームの開発について検討を開始する旨が書かれており、知事の署名もあります。見てもらえば分かりますが、調査ではなく開発計画です。少なくとも、執行部が未入植ドームの存在を確信しているのは確実かと思われます」
それでもナツメは納得できないと言った様子で頭を傾げた。未入植ドームの存在を公表すれば、倦怠感が漂うドームの雰囲気は一掃されるだろう。しかし、肝心のドームがそもそも存在しなければそれを隠し通すのは難しい。真の目的がナガト達反抗勢力の一掃にあったとしても、ドームの実在は確認しておく必要がある。
「私もナツメさんの意見に同意です。確かにナガトさんの入手された資料は本物のように見えますが、未入植ドームの存在が確認されているとは思えません。ブラフの可能性もあるのではないでしょうか?」
一度場を見渡して反対意見がなさそうなことを確認し、ユミが話を続ける。
「執行部が未入植ドームを探査するとして、その元になるのはキミヤスさんに提供したデータです。そして、そのデータには詳細な位置は示されていません。通信局が独自に設置しているというソナーネットワークを絞り込むことが目的と伺ったので、提供したのは〝確保すべき進路〟の情報だけです。実際の未入植ドームの位置からずらしていますので、ドームの位置を絞り込むのは不可能です」
ユミの話に頷いたナツメが、ナガトに追求の目を向ける。
「ってことはナガトが偽情報を掴まされたってこと?」
「いえ、そうとは言い切れません」
三局長の視線がコウに集まる。
「この間、地震がありましたよね? 確かにキミヤスさんに渡した情報では位置の特定は難しいですが、大まかな方向は分かります。そして、あの地震は運悪く未入植ドームの向こう側で発生したようです」
言葉の意味を理解するにつれてナツメの表情が険しくなる。
「地震波ね」
理解出来ていない様子のミサキとユミのためかナツメが続ける。
「ドームは言ってみれば巨大な空洞だから、地震波の伝わり方が違うの。ドームがどこにあるか全く分からなかったら無理だけど、方向がある程度限定できていて、ドームの大きさも把握していれば位置を特定することも可能なの。本当にドームが存在すれば少なくとも、探索可能なレベルまで絞り込めると思う」
地震波を使った地中探査技術は熱源管理局が熱水孔やマグマの位置を特定するために使っていた。探索対象は全く違うが、原理は流用できる。熱源管理局が所有する小さなソナー網で未入植ドームを見つけようとすれば探索範囲を相当限った上で強い地震波が来るのを待つ必要があるが、桁違いの規模を持つ通信局のソナー網を使えば先日の地震くらいでも探知出来た可能性は高い。
「……そうなると、ナガトさんが言う計画が実際に進められているものとして対応を考えるしかなさそうですね」
ユミが腕を組んでそうつぶやく。重苦しい雰囲気の中、ナツメがナガトに問う。
「ところで、キミヤスの所在は確認出来ているの?」
「いえ。ここ数ヶ月は全く連絡が取れていません。この提案書を提供してくれた兄の同僚議員も現在は所在が分からなくなっています。おそらく、執行部に軟禁されている可能性が高いんじゃないかと……」
ナガトは歯を食いしばりながらそう答えた。知事への怒りと共に、兄を巻き込んだことに対する後悔の念が湧き起こってくる。もし、自分がキミヤスに相談さえしなければ未入植ドームの情報が漏れることも、兄が拉致されることもなかったのだ。そんなナガトの心中を察したのかミサキが口を開いた。
「キミヤスさんに対する情報提供を承認したのはイルカ種評議会です。キミヤスさんの身を危険に晒してしまった事に対し、議長として謝罪します」
「ミサキ、謝ることはないわ。悪いのは私たちシャチ種よ。あなたたちの貴重な情報を慎重に扱わなかったから……」
頭を下げるミサキに続き、ナツメも頭を垂れた。続いてナガトも謝罪しようとしたところで、ユミが尾びれで軽く床を叩いた。
「責任追求は後にしましょう。まずは対策を考えませんか? ナガトさんの言われていることが事実なら早急に対処を考える必要があります」
ナガトはユミに促される形で今後、予想される展開について説明を始めた。三局の解散は執行部の独断ではできず、正規の手続きを経るなら上院、下院の双方で議決を取る必要がある。しかし、そのような悠長な手は使ってこないだろうとナガトは予測していた。いくら執行部がドームを掌握しているとは言え、議員の中には知事の政敵も居る。ドームの維持管理に不可欠な三局、それもイルカ種管轄の大気維持局と食料資源局ならまだしもシャチ種管轄の熱源管理局を解散させるとなれば慎重な議論になることは明らかだった。それに、時間をかければかけるほど三局からの反撃もあると考えるだろう。執行部はサボタージュでドームの運営に支障が出ることを恐れるはずだ。そうなれば不満が高まっているイルカ種一般市民に火が付く可能性もある。このような事態を防ぐため、執行部はまず局長ら官僚機構のトップを押さえようとするだろう。一番簡単なのは警備局を動かして三局の活動に何らかの疑義をかけ、拘束してしまうことだ。そうして反撃を封じておいて、解放の代わりに未入植ドームの開拓を担当することを受け入れさせる。そうなれば両院の説得も容易に進むだろう。
「彼らの第一目標は指令室の確保でしょうね」
ユミの意見にナガトは頷く。
「はい。慢性的な人員不足から、三局では自動化が進んでいます。もちろん、長期的には経験を積んだ人員が必要ですが、短期間であれば指令室さえ確保すればドームの維持運営には支障ありません」
「効率化を進めたのがアダとなるとは皮肉なものね。ぶっちゃけ、私たちが居なくても仕事は勝手に進むんだから」
ふうっとミサキがため息を吐いた。そんなミサキに対し、ナツメがぼそっとつぶやいた。
「あなたの場合は周りが優秀だから回っているだけでしょうよ」
対してミサキは「その周りを育てたのは私よ」と言って噴気孔を鳴らした。緊急事態にもかかわらずいがみ合う二人に半ばあきれながらナガトは話を続けた。
「ユミさんの言われたとおり、まず守るべきは三局のシゴトです。業務を執行部に握られては反撃の術はなくなります。逆に死守出来れば反撃の機会も見つけられる。長期間にわたって兄を軟禁し続けられるとは思いませんし」
そう言うナガトにナツメが噛みつく。
「防衛局が動く可能性は? 彼らは殺傷能力を持つ銃器や強力な火器を持ってる。防衛局が動くようなら勝ち目は無いわよ?」
ナツメの指摘にナガトは頷いた。外郭団体にイルカ種職員も居るが、警備局はあくまでシャチ種が管轄する部署だ。そのため、単純な人員数だけで考えれば食糧資源局と大気維持管理局の職員を合わせた数の方がずっと多い。それに荒事に関して言えば、毎日のようにドーム外の自然と格闘している熱源管理局のシャチ種職員でも十分に対抗出来るだろう。懸念材料はやはり段違いな火力を持つ防衛局の動向だ。
「はい、確かに防衛局が動けば確実に負けるでしょう。しかし、あくまで若手議員の俺からの意見ですが、防衛局が動くことはまずないと思います。防衛局の任務はあくまでドーム外での抗争、具体的には他のドームに対する防衛行為です。もちろん、ギョクツドームの存続に関わるとなればドーム内での戦闘行為も行えはしますが、彼らを動かす十分な理由は作れないでしょう。防衛局を動かすには上院議会で三分の二以上の賛成を得る必要がありますが、反政府のテロ組織相手ならまだしも、正式な手段で任命された行政の局長相手にいきなり出動しろという議案を通すのはまず無理でしょうね。問題はむしろ指令室がある場所にあります」
そう言うとナガトは各人の網膜ディスプレイにドームの立体マップを送った。直径約六キロ、高さ約八百メートルの裾が大きく広がり、先端が窄まったその形は地球に存在したタジン鍋という調理器具によく似ていた。ドームは水平方向に四つの隔壁で仕切られ、上から第一階層、第二階層、第三階層、第四階層と名が付けられており、第二階層以下は高さ約五十メートルに統一されている。ドームは北西、南東方向と北東、南西方向の隔壁でも区切られており、東西南北のそれぞれがEエリア、Wエリア、Sエリア、Nエリアと名が付けられている。中心を占めているのが、行政機構が集約された〝セントラルタワー〟であり、各階層を貫くその先端はドームの外、海底との境界にまで達している。
「ご存じの通り、三局の指令室は全てセントラルタワーに集約されています。問題となるのはセントラルタワーのインフラです。通常、ドームの空調などは大気維持管理局が、通信設備は通信局が、電力などは熱源管理局が管理しています。ただ、このセントラルタワーに関して言えば全て総務局の管轄下にあり、各部局のコントロールからは外れています」
「確か、執行部に総務局出身者が居たわね……」
ナツメの言葉に頷きながら、ナガトの脳裏には生命維持設備を破壊され、じわじわと窒息死に向かったであろうガンコウドームの民衆が思い浮かんだ。
「総務局が執行部に協力するかどうかは分かりません。三局の指令室は隔離されているわけではないので、職員を窒息させることは出来ないでしょう。ただ、通信と電力については確保が難しいかもしれません。それに、食料や水、移動手段の確保にも問題があります。熱源管理局は港があるので大丈夫ですが、他の二局は難しいでしょう。三局間のアクセス経路を確保するのも容易ではありません」
ナガトがクリック音をたてると立体マップのセントラルタワーの先端と第二階層部分が赤く光る。先端にあるのが熱源管理局の指令室、第二階層にある二つの点が食糧資源局と大気維持管理局だ。その間には高さ方向で600メートルの隔たりがあり、間には警備局の詰所が何箇所か存在する。さらには第二階層の二つの指令室の間も直接は行き来出来ず、第三階層を経由する必要があった。
「問題山積ね」
ミサキが大きくため息を吐く。
「ええ、その通りです。対策については俺とコウとで考えてみます。兄についても本格的に行方を捜すつもりです。もし無事ならば協力してもらえると思うので」
「私たちも何か動きがあればすぐにナガトさんに連絡を入れるようにします。あと、コウは大気維持管理局を外れてもらって、ナガトさん付の秘書と言う形にしてはどうかと思うんだけど、どうかしら?」
ユミがミサキを見る。ミサキは「もちろんよ」と応えた。そんな二人に対し、当のコウは黙したまま静かに頷いた。
ナガトは船の整備部品を確保するために工業区画の一角を訪れていた。ドームの壁がすぐ近くに迫るこの場所は、小規模ながら手の込んだ船の部品を製造している工場が多く集まっている。熱源管理局は作業内容が複雑な事もあって、船に使う部品も多種多様だ。規格化できないものも多く、保守部品はこれらの小規模工場に頼っていた。ナガトがわざわざ顔を出しに来たのは、いざ事が起こった際にも船のメンテナンス部品を引き続き供給してもらうためだ。こういった込み入ったことを頼むには通信網経由ではなく顔を出すことが重要になる。
路地を吹き抜ける冷たい風に乗り、鉄の臭いが漂ってくる。ナガトは肌寒さを感じ、ジャケットを羽織った。ドームの端にあたるこの地域は、空調設備が間近にあるためいつ来ても気温が低かった。鉄臭さが強くなり、金属が金属を削る甲高い音が近くなってきたころ、遠くからだみ声が聞こえてきた。騒音の中でも良く通る声だ。
「おおーい、こっちこっち!」
首にタオルを巻き、黒ずんだ水色の作業着に身を包んだイルカ種の男が、手を振りながらナガトの方へと歩み寄る。
「お世話になります、キヌヤさん。すみませんね、いきなりお邪魔しちゃって」
ナガトは軽く会釈したあと手を差し出すと、キヌヤは作業着で軽く手を拭いて握り返す。キヌヤの油で黒く汚れた手は、熟練工のそれだった。
「何言ってんだ、水くさい。良いんだ良いんだ、今は俺らも暇してんだから。それより今は議員さんやってんだろ? 全く凄いねえ、子供の頃はただのいたずら坊主だったのに」
「子供の頃にあった事なんてないでしょが。相変わらずの適当っぷりで」
「でもよ、いたずら坊主ってのは間違ってないだろ?」
おどけたように頭を掻くキヌヤに、ナガトは破顔して頷く。
「まあ、否定はしませんけど」
「やっぱり俺の目に間違いはなかったってことだな。さあさあ、では応接室へとご案内いたしましょう。なんたって、元いたずら小僧の上院議員さんに大人のいたずらなんてされたら私どものような零細工場はひとたまりもないですからなぁ」
そう言うとキヌヤは、中腰の姿勢を保ったまま応接室とは名ばかりの事務室へとナガトを案内する。キヌヤは見ての通りすこし面倒な男だったが、根は信用出来るとナガトは思っている。
小さな工場を経営するキヌヤとはナガトが熱源管理局に入って以来のつきあいだった。ナガトが入局したとき、熱源管理局の船は様々な問題を抱えていた。長距離航海時の細かな振動や船を海底に固定するアンカーの強度、工作物を組み立てるアームの精度といった致命的ではないが、作業員にとっては気になる問題だ。作業効率にも大きく影響する。その多くは船に使う部品の精度や品質管理に起因していた。ナガトは問題点を解決すべく、色々な工場に協力を要請したのだが、手間の割に実入りも少ないこともあってなかなか協力者を見つけることが出来ないでいた。そんななか、ナガトが注目したのはキヌヤをはじめとする小規模な部品工場だった。以前から造船メーカーを通じてこれらの部品工場とは間接的に取引があったのだが、直接取引しようと思い立ったのはナガトが初めてだった。局上層部はもちろん、造船メーカーさえもすっ飛ばしてこれらの部品工場に直接訪問し、協力を要請したのだった。それが厄介な事態を招いたのは想像に難くない。造船メーカーにとっては取り分が減るという理由もあるが、なにより品質保障上の問題を抱えるのを嫌ったのだ。熱源管理局にとっても造船メーカーを通した方が管理も楽なため、局内も反対が多数派だった。しかし、ナガトがよく調査してみると小さな不具合が多発することによる造船メーカーの負担は想像以上の額に膨れあがっていたのだ。部品精度に問題があった場合、現場は造船メーカーにメンテナンス技術者を派遣するよう要請する。造船メーカーは技術者を派遣するものの、間に入っているだけのため結局持ち帰って部品ベンダーに修理を依頼することになる。要は伝言ゲームをしているので現場の要望は部品ベンダーにうまく伝わらず、修理は当然中途半端なものになる。その結果、何度もメンテナンスを要求する羽目になり、人件費が馬鹿にならなくなっていたのだ。その状況をナガトが変えたのだった。部品ベンダーに直接修理やカスタムを依頼することで伝言ゲームを回避するようにしたのだ。熱源管理局の管理コストは増えるが、現場は作業効率が上がり、造船メーカーは人件費が削減でき、部品ベンダーは中抜きがなくなるため収入が増える。これは特に規模の小さな部品工場にとってはありがたいことだった。あとから考えれば簡単な話だが、変えるためにはナガトが奔走して数字を集め、関係者を説得する必要があった。そんなナガトの努力を近くで見ていた事もあってか、部品工場の関係者の多くはナガトのことをを好意の目で見てくれていた。それとともにナガトの直情的な性格もよく知っていたのだろう、近いうちに熱源管理局と執行部が対立する可能性があることを話してもそれほど驚かれはしなかった。それどころか、部品供給については仕事仲間にも言っておくから心配するなと太鼓判を押され、ナガトはほっと息を吐くことが出来た。
通常の配送路が使えなくなった場合の迂回方法や追加料金についての打ち合わせが一段落し、インスタントコーヒーを飲みながら昔話に花を咲かしていた時、頭部端末からアラームが発せられる。頭部端末が緊急度を認識し、自動的に回線を繋ぐ。回線が繋がると同時に、暗号メッセージが復号されクリック音が再生される。その内容にナガトは顔を強ばらせた。
「どうした? なにかあったのか?」
神妙な面持ちで問いかけるキヌヤに、ナガトは黙って頷く。
『ナガト、動きがあった。今すぐ動け』
クリック音はそう言っていた。発信者はマサヒトの兄であり、ナガトの親友でもあるヨシヒトだ。〝動き〟とは警備局になにか動きがあったことを意味している。情報の専門家でもあるヨシヒトは、互いのリスク回避のためにナガトとは直接やり取りしない。間にマサヒトを通すのが普通だ。そんなヨシヒトがリスクを負ってまで直接ナガトに連絡を入れた事自体、事態が切迫していることを示していた。ナガトはあらかじめ取り決めてあった即時待避を表すコードを三局長とコウに発信すると、立ち上がってジャケットを手にする。
「すみません、ちょっと困ったことが起こったみたいで。近いうちに今日相談したことをお願いすることになると思います」
「状況は悪いのか?」
「それはなんとも……。が、急いで帰ることにします。せっかく盛り上がってきたところだったのに申し訳ない」
「気にするな。それより、車はいつもの場所だろ? 若いのに送らせるよ」
受話器に手を掛けようとするキヌヤの手を掴んでを止める。シャチ種の間では頭部端末が普及しているため滅多に目にすることはないが、イルカ種一般市民の間ではまだまだ電話機は現役だ。そしてこういった電話機の秘匿性は低いどころか、確実に通信局に傍受されている。
「いえ、今日はすぐそこに止めてるから大丈夫です」
そう言うとナガトは詫びを入れて工場を後にすると足早に駐車場へと向かった。三局長とコウからは了承のコードが届いていた。まだ安心は出来ないが、今の所は想定通りに進んでいるようだ。車に乗り、電源を入れたところでコウへ通話要求を入れる。回線が繋がった後、早口のクリック音で喋る。一般的な水中会話言語ではない。マサヒトを加えた三人の間でだけ通じるように改変を加えた、符牒を多く含んでいる言語だ。
『今、Wエリアの工業区画から家へ向かってる途中だ。そっちはどうだ?』
『どうだもなにも、大混乱だよ。でもまあ食糧資源局と大気維持管理局は職員の待避くらいだから、順調と言えるね。熱源管理局は資材と船があるから、僕とナツメさんで何とかしようとしているところ。まだもう少し時間がかかると思う』
ナガトは自動運転を解除し、アクセルを踏み込む。モーターがうなりを上げ、空転しないギリギリの速度でタイヤを回す。
『もう少し余裕があると踏んでいたんだが……。そっちは二人でなんとかなりそうか?』
『まあ、なんとかね。それよりユウキとマサヒトさんは?』
『今から俺が拾いに行く。その後は例の場所に直接向かう』
ナガトは渋滞を避けるために脇道に入って車を飛ばす。局員時代に何度も走った道のため、どの辺りが混みやすいのかは全て頭に入っていた。コウとの回線を切るとすぐにマサヒトへと回線を繋いだ。
『今何処だ?』
『事務所からナガトさんの自宅へ向かっているところです。ユウキくんも今帰宅中です』
ナガトは外に出ていることが多いため、緊急事態が起こったときはマサヒトがユウキの安全を確保するとあらかじめ決めておいた。ユウキが通う学校はセントラルタワー内にあるので、自宅まではすぐだ。
『分かった。家に着いたら窓を全部閉めて寝室に隠れておけ。あと三十分ほどで着く』
了解のつもりか、マサヒトからカエルが頷いている絵文字が送られてきた。ナガトは苦笑しながら車を飛ばした。走りながら自宅周辺の監視カメラの画像をチェックしてみるが、今の所は不審者は見当たらなかった。警備局は三局の指令室に加え、ナガトやコウの身を拘束しようとするはずだ。能力的な意味ではナツメでも十分指揮は執れるだろうが、局長はあくまで議会に命じられた立場だ。一方ナガトは選挙で選ばれた議員であるため、議会が短期間にどうこう出来るものではない。身の安全のためナガトはここ最近、自分のスケジュールを全て非公開としていた。ナガト自身、それなりに荒事の場数は踏んでいると自負しているため、簡単に拘束されるとは思っていなかったが、唯一心配なのはユウキの存在だった。ユウキは実子ではないものの、実子以上に気にかけていることは誰もが知っていた。中にはナガトがイルカ種に入れ込んでいるのはユウキがいるからだろうと指摘するものも居るくらいだ。もしナガトの所在が掴めなければ、ユウキを人質に取ろうとする可能性もある。
セントラルタワーの玄関に車を滑り込ませたナガトは、一足飛びに階段を上がって自宅へと向かう。らせん階段を一気に駆け上り、クリック音でドアを解錠する。
「ユウキ、無事か!」
ドアを開けて叫ぶと、奥の寝室からどたどたという足音が聞こえて来た。ナガトはほっと胸を撫で下ろす。ただ、マサヒトの姿を見て思わずため息を吐いた。小さな肩掛け一つのユウキに対し、マサヒトは背丈ほどもある大きなバックパックを背負っている。
「もう準備出来てるよ。急がないとヤバイんでしょ?」
ユウキは笑顔を浮かべ、まるでこれから遠足にでも行くかのような浮かれた様子を見せていた。不安しかないという表情を浮かべたマサヒトとは対照的だ。
「大丈夫でしょうか?」
「今まで散々準備したんだからなんとかなるだろ。ただ、急いだ方が良いな」
その日が今日であることはナガト達も予測出来なかったが、事態の推移はおおむね予想通りだ。もう少しすれば通信局の息がかかったニュースサイトに三局の捜査に関する記事が上がるだろう。ナガトがふらつくマサヒトに手を貸しながらコウに状況を確認しようとした時、タイミング良くコウからメッセージが入る。
『食糧資源局と大気維持管理局は陸路で全員待避完了、システムも副指令室に全権限を移譲して主指令室の情報は削除済み。熱源管理局は一部職員と警備局員の間でごたごたがあったけど、なんとか脱出はできた。ただ、物資の二割位は船が足りなくて残してきたけどね。三局長と僕も海路で副指令室に向かっているところだよ。あとはキミが一番のボトルネックだから早く待避するように。以上』
内容を見てナガトはひとまずほっとした。ガンコウドームは万が一ドームが浸水したり、何らかの事故でセントラルタワーが使用出来なくなったときのために予備として副指令所を二箇所に設けていた。副と付いてはいるが、セントラルタワーに匹敵する整備ドックや指令システムが揃っている。緊急時以外は常時使用しないようにと通達されてはいたが、多数の大型船を所持し、他の局とも対立気味な熱源管理局はセントラルタワーに加えてWエリアの副指令所も常用していた。セントラルタワーの主指令所が狙われることを予測していたナガト達は三局の機能の多くを秘密裏にセントラルタワーから副指令所のひとつへと移し、今回の事態へと備えていた。指令権限が副指令所に移れば、セントラルタワーを占拠しても意味はない。避難経路もあらかじめ計画されており、引越が上手くいったのはその成果だった。ただ、熱源管理局の資材は量が多い上に船を使わないと運べないため、急を要しない資材については置いて行かざるを得ないだろう。ナガトはコウに労をねぎらうメッセージを送ってマサヒト達を急かす。
逃げ道を確認しようと監視カメラの映像を覗いたナガトは思わず悪態を吐いた。玄関前に駐めた車を厳つい男が覗いている。傷が多く入った背びれには見覚えがあった。訓練船座礁事故で警備局とやり合った後、ナガトに文句を言ってきた警備局の課長だ。確かクルホとかいう名だったはずだ。そのときナガトは不本意だったが兄キミヤスの名を出した。キミヤスは警備局に非常に大きな影響力を持っている。にもかかわらず正々堂々抗議してきた事から考えると、クルホはかなり正義感の強い人物なのだろう。おそらく自分が正しいと思っている限りは考えを曲げず、権力にも動じないだろう。並みの警備局員ならあしらえるだろうが、少々厄介な相手に思えた。カメラにはクルホ以外に三人の警備局員が映っている。武装はせいぜい警棒くらいだろうが、全員シャチ種で当然格闘訓練も受けているだろう。ナガトだけならまだしも、マサヒトやユウキを連れていては正面突破は難しそうだった。
「あの、裏側から駐車場へ抜けるのはどうでしょうか? アスレチックプールを通れば追っ手を捲けるのではないかなと思うのですが」
同じく映像を見ていた、マサヒトが汗を拭いながら言う。
「でもさ、車は玄関にあるんでしょ? にしてもさあ、それ何入ってるの、これ?」
ユウキが振り返り、よたよたと歩くマサヒトをもどかしそうに見る。
「ナガトさんはね、他人のでも車さえあればなんとかなるんですよ。あとこれはですね、美味しいティーを淹れるためのですね……」
「よし、プールへ向かうぞ。人混みに紛れ込めばなんとかなるだろう。あとマサヒト、それは置いてけ」
そう言うとナガトはマサヒトのバックパックをひょいと持ち上げ、放り投げた。がちゃんという陶器が壊れる音に、マサヒトが悲鳴を上げる。追っ手はもうエレベーターに乗ろうとしていた。状況が状況だけに、ティーセットは諦めたようだが、マサヒトは走りながらも何度も振り返ってバックパックを名残惜しそうに見つめていた。
あわやというタイミングでクルホ達を回避して、アスレチックプールへと向かう廊下に入る。監視カメラの映像では追っ手はナガトの部屋へ向かっている。ナガト達がそこにいないことに気付いてもまずは家捜しから入るだろう、と思ったところでナガトはあることに気が付く。
「ナガトさん、残念なお知らせが」
「俺もだ」
振り返ったマサヒトにナガトが応える。マサヒトがお先にどうぞと目配せをする。
「警備局員に俺たちが逃げたことがバレた。誰かさんのティーセットのせいでな」
「捨てたのはナガトさんじゃないですか……。高かったんですよ!」
そう言いながらうなだれるマサヒトを、ユウキがあきれ顔で見ている。犯人の自宅前に慌てて持ち出そうとしたと思われる荷物が放り投げてあるのを見れば、素人でも犯人がいまさっき逃走したということに気づく。監視カメラの存在は当然考慮しているはずで、それを見ればナガト達が何処へ向かっているかも分かる。
「ちょっと、二人ともそれどころじゃないよ! あいつらコッチに向かってくる!」
ユウキがマサヒトの袖を引っ張る。にもかかわらずマサヒトの歩は遅い。
「ナガトさん、さっきの残念なお知らせなんですが……アスレチックプールは今日お休みみたいです。入り口、閉まってます。つまり僕達は袋のネズミに……」
眉間に皺を寄せたナガトは、頭部端末でマップを確認した。この廊下の先にはアスレチックプールの入場ゲートがあるだけだ。そしてアスレチックプールは確かに定休日となっている。
「突破するしかないだろう。なんとかするから急ぐぞ!」
ナガトとユウキは絶望の表情を浮かべたマサヒトをなんとか励ましてゲートへと向かう。
無人の受付には本日定休日の札がかかり、更衣室へと向かうガラス戸にはカギがかかっている。ナガトはこうなれば壊すしか無いと受付の椅子を乱暴に持ち上げた。思い切り力を入れて椅子を打ち付けるが、ガラス戸に跳ね返される。ガラスにはヒビ一つ入っていない。再度打ち付けようとするナガトをユウキが止める。
「待ってよ、ナガト。こういうときは頭使わないと」
そう言うとユウキは受付へと向かい、手慣れた様子で机の引き出しを開けて中からカギを取り出すと、それをナガトへ放り投げてきた。
「青いタグが付いてるのがそこのカギだから」
「知ってるんなら早く言え!」
悪態を吐きながら受け取ったカギ束から青のタグを探し、鍵穴へと差し込む。回すとカチリと音がしてカギが外れた。
「言う前に勝手に壊そうとしたのはナガトでしょ!」
「ナガトさん、それどころじゃないですよ!」
マサヒトの声に振り向くと、スーツに身を固めたクルホの姿が見えた。止まれと叫んでいるようだ。ナガトは急いでユウキ、マサヒトの順でゲートの中へ押し込む。ナガトが扉をくぐり、締めようとしたところでクルホが何かを投げてきた。鋼鉄製の棒が勢いよく閉まる扉に当たって甲高い音を立てる。
「ナガト上院議員! 横領教唆の容疑で貴様を逮捕する! 大人しくしろ!」
制止を無視して踵を返したナガトは、先行する二人の後を追った。しかし、デスクワークが中心の秘書と子供が一緒では追いつかれるのは時間の問題だろう。ナガトは何か手はないかと考えるが思い浮かばず、更衣室を抜けてプールエリアに入ったところでついに追いつかれてしまった。ユウキとマサヒトを後ろに隠してクルホとその部下三名に対峙する。プールエリアを通り抜け、アスレチックプールを越えれば駐車場はすぐだったのだが、シャチ種の大人四人を相手に強引に突破するのは難しそうだ。上着にネクタイを締めたクルホに対し、部下達は警備局の制服を着ている。おそらく実働部隊は制服組の3人で、クルホ自体は武闘派ではなさそうだ。
「上院議員! おとなしくしてくれれば危害は加えない。残り二人もだ。そんな子供を連れては逃げるのは無理だぞ、無駄な抵抗はするな!」
子供扱いされた事に苛ついたのか、ユウキが「誰がおとなしくするもんか」と叫ぶ。
「それが守られる保証は? 第一、俺には逮捕される覚えなんてない」
クルホの部下がじわりと前に一歩進む。両手を広げてユウキを背に隠す。残念なことに、イルカ種犯罪者に対する警備局の扱いは酷いものだった。特に子供ともなれば警備局員の慰み者になるのは目に見えていた。シャチ種の間では買春の相手と言えばイルカ種なのだ。その中には大人だけではなく子供も含まれる。
「それは裁判所が判断することだ。お前達はただ黙って俺の指示に従え!」
クルホが手で指示し、部下が三方からナガト達を取り囲む。
「あのー、上院議員には不逮捕特権があると思うんですけど」
前に飛び出そうとするユウキを後ろから引きとどめていたマサヒトが、おずおずと声を出す。クルホがフンと鼻を鳴らしてマサヒトを睨むと、気弱な秘書はすぐにナガトの後ろへ身を隠した。会期中の不逮捕特権しか与えられていないイルカ種で構成される下院議員とは異なり、シャチ種で構成される上院議員には議員を辞めない限り常に不逮捕特権が与えられていた。
「権力を悪用するものに特権なんぞ行使されてたまるか。逮捕状はこの通り出てるんだ、文句があるなら逮捕状を出した上へ言うんだな」
「ほう、お前は法律より自分の正義を優先するのか。法を守るべき立場のものが立派な心掛けだ。流石に花形の捜査部部長にまで出世したことはある」
胸元の階級章をちらりと見てナガトがそう言う。
「ちゃんとした手続きに基づく組織判断だ。民衆に与えられた権力を、私腹を肥やすために使った上院議員様には言われたくないな」
どうやらクルホはナガトが三局長をそそのかして横領したという執行部の筋書きをそのまま信用しているらしい。クルホの部下達がじわじわと距離を詰めてくる。
「交渉決裂ってとこかな。じゃあ、覚悟しろよ!」
ナガトは頭部端末を通じて後ろに隠れた二人に右へ走れと指示を出す。それとほぼ同時に右側の警備局員との距離を一気に詰める。流れるような動きで上半身を捻ると、右足を軸にして警備局員に尾びれを思い切り振るった。不意を突かれた警備局員はとっさに警棒を正面に構える。ナガトは途中で腰にひねりを加えて尾びれの軌道を上側へと変え、警棒の上を抜ける。体重の乗った強力な一撃が、警備局員のあごを捕らえて身体ごと吹き飛ばす。
「確保しろ! 確保だっ!」
クルホが叫ぶと同時に残りの二人がナガトへ向かって走ってくる。ナガトもユウキとマサヒトに向かって「飛び込め」と叫んだ。
「上院議員! 抵抗すると立場が悪くなるだけだぞ!」
再度の制止を無視し、二人に続いてナガトもプールの中へと飛び込んだ。
レジャー施設として作られたこのプールには各プールを繋ぐ水路が設けられていた。ナガトは水中に設けられたトンネル状の水路に入るようクリック音で指示する。
『このまま進んで向こう側へ抜けろ!』
ナガトはトンネルへ入ったところで立ち止まると追っ手を待ち構える。トンネルはせいぜい二人がすれ違えるほどで、ナガトが立ちふさがれば横を抜けられる心配はない。陸で三人相手は難しくても水中で二人が相手なら自信があった。先行してきた警備局員の一人がナガトへ向かって突進してくる。ナガトはギリギリまで待って躱すと、両手で水を掻いて身体をひるがえし、大口を開けて警備局員の腕に噛みつく。ナガトの牙が制服を貫通し、口の中に鉄の臭いが広がる。マサヒトならその不快さで耐えられないだろうが、子供の頃から〝やんちゃ〟をしてきたナガトにとってはこの程度は平気だ。尾びれをねじりながら一振りして身体を回転させると、ごきりと鈍い音がした。警備局員の噴気孔から悲鳴が上がる。
後を追ってきた警備局員の罵声が聞こえた時、ナガトは既に犠牲者を解放して体勢を整えていた。怒りに燃えるて警棒を振り上げる新手に向けて、先ほど無力化した警備局員の身体を勢いよく投げつける。激痛に暴れる同僚に邪魔され、新手の警備局員の動きが一瞬止まる。ナガトはその隙を逃さず、全身の筋力を使って新手の警備局員に突進した。警備局員は必死に警棒を振り回して牽制しようとするも、本来陸上用の警棒は、水中で振り回すには抵抗が大きすぎる。それに加えて血で染まる水によって視界も悪くなっていた。エコロケーションを自在に扱えるナガトとは違い、この警備局員は水中での位置把握がそれほど得意ではなさそうだった。ナガトは警備局員の脇腹に狙いを定めて突っ込む。体当たりを受けた警備局員はトンネルの内壁へと打ち付けられ、口と噴気孔から泡を吹き出して気を失ったようだ。
ナガトは二人の警備局員を両手に持ってトンネルの先へと進み、プールサイドへ引き上げる。ナガトとはプールを挟んだ向かい側に現われたクルホが、部下の惨状に叫び声を上げた。おそらく遠回りをして陸路を来たのだろう。余裕で逃げ切れる距離だ。最も、クルホ一人なら全く脅威では無くなっていた。
「ナガト貴様っ!」
「シャチ種のくせに水中戦の訓練が全然みたいだな、情けない。この程度ならウチのユウキの方がよっぽど手強いぞ? 死なないように手加減してやったんだ、さっさと救護を呼んでやれ。それとも、お前も腕を食いちぎられたいか?」
ニッと血のしたたる牙を見せるナガトに、クルホがたじろぐ。「野蛮人め」と苦虫をかみつぶした顔で吐き捨てるクルホをよそに、ナガトは先を行く二人を追った。
「ねえねえ、こんなことして大丈夫なの?」
車に積んでいたタオルで頭を拭きながらユウキが尋ねる。ナガトが二人に追いついたとき、マサヒトが使えそうな車を解錠したところだった。駐車許可証を見るに、プールのスタッフの車らしかった。
「いいんだよ、緊急事態なんだから!」
ナガトはそう応えると副指令所へ向けて車を走らせる。上院議員に与えられている権利の一つに優先的移動手段確保がある。緊急事態宣言が発令されたときに公共交通機関を占有したり、自動車などの個人資産を接収したりする権利だ。ただし、議会が緊急招集したときを想定して与えられている権利のため、今回の場合は限りなく黒に近いグレーだ。ただ、上院議員に文句を言えるような人間はシャチ種でもそう多くはいなかった。可哀想だが、この車の持ち主は泣き寝入りするしかないだろう。
「マサヒト、コウにあと二十分で着くと連絡を入れてくれ。あと、飛ばすからちゃんと掴まっておけよ!」
アクセルを一気に踏み込んでモーターをフル回転させる。スピードを上げたままセントラルタワーのある行政区画を抜け、商業区画へと通じるトンネルへと入る。強引に追い越しをかけた車からクラックションを鳴らされたが、無視して飛ばした。この車の持ち主にはあとから速度違反や危険運転の請求書が山のように届くだろう。ルームミラーを見てみると、マサヒトが真っ青な顔をしていた。今にも吐きそうに見えたが気にせず飛ばす。しかし、商業区画へ入ると一気に交通量が増え、流石に速度を出せなくなる。脇道に入ろうにも、ナガト達が接収した車はサイズが大きく、対向車が来るとすれ違えない。
「小型車に乗り換える。そうだな……あの三輪にしよう」
そう言うとナガトは近くにあった駐車場に停車すると、近くにあった三輪自動車に頭部端末を繋ぐ。三輪は上院議員の身分を認識するとカギを開けた。
「なんか凄い悪いことしてるみたい……」
三輪自動車の狭いシートに身体を押し込めたユウキがそうつぶやく。
「接収で受けた損害はちゃんと支払われるから気にするな。あとで詫び状も送っておくよ。ちょっと狭いがもう少しだから辛抱してくれ」
乱開発により狭く、複雑化した商業区画を、地図を確認しながら慎重に進む。馴染みはあったが、一度狭い道に入り込んでしまうと抜け出すのが大変だ。軒先に商品を並べ、道行く人に声をかけるような小さな個人商店が並ぶ生活道を進み、目的地である隔壁を目指す。車の前に飛び出すようにしてナガト達に商品を売り込もうとする、商魂たくましいおばさんに手を焼きながらもなんとか車を進めた。油断していると突然窓から饅頭をもった手が入り込んでくるカオスな光景に、流石のユウキも目を白黒させていた。大通りをそのまま行けば楽だったが、その分警備局にも見つかりやすくなる。その点、商業区画の奥地へ入り込んでしまえば発見される可能性はずいぶん小さくなる。結局、隔壁には予定より5分遅れで到着した。
隔壁の近くに建てられた旧管理棟に三輪を駐め、車を降りる。正面には幅百メートル程の荒れ地を挟んで商業区画の雑多な町並みが見えた。先ほどまでの喧噪が嘘のように静まりかえっている。旧管理棟は隔壁間を繋ぐトンネルからも遠く離れており、一般人はまず近づかない。ナガトは周囲を見渡して追っ手が来ていないことを確認すると、管理棟の扉に手を掛ける。
「ねえ、こんなとろに何があるの?」
ツタが這い、所々ひび割れて廃墟と見間違うほどくたびれた旧管理棟を、ユウキがいぶかしげな表情で見上げている。元は隔壁を整備するための詰め所として設けられた施設だったが、主要道路に近いところに管理棟が新設されたため、この旧管理棟はほとんど使われなくなったのだった。
「副指令所への入り口だ。ま、勝手口ってところだな」
そう言うとナガトは、さびの浮いた金属扉を開ける。ぎいという音と共に、中からよどんだ空気が流れ出てくる。埃っぽい臭いにナガトは顔をしかめる。後ろを見るとマサヒトはいつの間用意したのか、マスクをしていた。
「うわっ! カビくせえ!」
ナガトの横を抜けて中に入ったユウキが鼻を押さえて叫ぶ。建物内はカビ臭く、空気も澱んでいる。ほとんど換気されていないからだろう。と言うのも、副指令所の正面玄関はWエリアとSエリアを結ぶトンネルの途中、隔壁の中央付近にあり、この旧管理棟側の入り口は滅多に利用されていないためだ。そもそもナガト達が引越を決めるまで副指令所は熱源管理局職員くらいしか使っていなかった。その熱源管理局職員にしても海中から海底ゲートを通って直接入るか、トンネル側のメインゲートを使うのが普通だった。こういう理由もあってこの〝勝手口〟は存在を知るものも少なく、こっそり出入りするには最適といえた。ナガトは念のため管理棟の扉に鍵をかけると、予備通路に繋がる階段を降りていった。コンクリート直打ちの通路の天井には蜘蛛が巣を張っている。にわか造りのLEDライトだけが場違いに明るかった。突き当たりを曲がると唐突に真新しいゲートが現われる。副指令所の入り口だった。このゲートも元はずいぶんくたびれ、開けるだけでも一苦労していたのだが、副指令所に拠点を移す事を契機に整備し直したのだ。想定したくはないが、もし政府執行部と正面からやり合うようになればここも侵入経路の一つとなる。設備としてはセントラルタワーのセキュリティゲートにも劣らない頑丈なものを設置していた。
ゲートを通り抜けると、白を基調に塗装された予備通路の両脇に生活物資が高々と積まれていた。缶詰やレトルトを中心とした保存食、それに日用品や医薬品だ。副指令所のインフラはセントラルタワーの指令室と異なり、大気維持管理局が直接管轄している。発電や浄水、大気浄化といった設備は隔壁内にあるため、いくら政府執行部でも簡単には手出しできない。逆に、これらの設備を人質に取ることさえ可能だった。補給に懸念があるのは食料や日用品と船の整備資材だ。ごく小規模な水耕栽培施設は運び込んだが、職員全員の腹を満たすことは到底不可能だ。ひとまず半年くらいは乗り切れる食料は運び込んだが、それを超えるようなら民間の協力者に期待するしかなかった。壁一面に積まれた保存食の山を見つめるマサヒトの表情は冴えなかった。粗末な食事でも想像しいるのだろう。一方でユウキは秘密基地みたいだと言ってはしゃいでいた。
もう一度ゲートを越えて階段を上がると〝熱源管理局副指令室〟と掲げられた扉が目に入った。「副」の字にバッテンが付けられているのを見てナガトは苦笑する。十分な空きスペースと新しい設備、清掃員の定期巡回があるセントラルタワーの指令室と比べるとずいぶんと貧相ではあるが、これからはここが指令室になるのだ。食糧資源局と大気維持管理局の指令室は更に上のフロアにあった。階下には居住フロアが設けられている。当面、拘束される心配の少ない一般職員は普通に自宅から勤務することになっているため、今は幹部職員だけが暮らしている。ただ、いざとなれば大半の職員が寝泊まり出来るだけのスペースは確保していた。これほど大規模な空間が確保されているのは、万が一ドームが浸水したときの避難所として設計されたためだ。破壊されたガンコウドームの隔壁内にも生存者がいるのではという噂が立つ程度には自立設備が整っている。
扉を抜けると、職員達が忙しなく動く喧噪が聞こえてくる。元の指令室と比べると三割程度狭くなったこともあり、ずいぶん人でごった返しているように感じる。指揮系統は維持されており、職員は必死に業務をこなそうと奮闘しているようだ。それでもなんとか回っているのは前々から準備を進めてきた三局長の大きな成果だと言えた。引越作業中なのか、大きな荷物を持ったシャチ種の職員がそこら中を行き来しており、マサヒトなど何度もぶつかりそうになり、そのたびにぺこぺこと頭を下げていた。ナガトはというと元部下の後ろ姿を見つけ、無事だったかとほっと胸を撫で下ろしていた。コウから全員待避できたと聞いてはいたが、彼らの姿を見てようやくそれを実感できた。緒戦はこちらの勝ちと言えそうだ。三人はなるべく彼らの邪魔をしないように通り抜け、共用フロアの会議室へと向かった。雑居ビルの一室と言った雰囲気のペンキが剥げた扉を開けると、ミサキとユミがスクリーンを前に協議している。セントラルタワーのような埋め込み式の壁面スクリーンではなく、昔懐かしいプロジェクタだ。頭部端末との直接リンクもできない旧式のものだった。
「ああ、よかった! 連絡無かったから心配したのよ! ユウキちゃんも怖かったでしょ、もう大丈夫だからね」
ナガト達の姿を目にとめたミサキがユウキに駆け寄り、ギュッと抱きしめる。当のユウキはと言うと、突然の熱い抱擁に面食らったようだ。「大丈夫だから」と言いながら、頭を撫でようとするミサキからなんとか逃れようとしている。
「コウにはそろそろ着くと連絡入れておいたんですけどね。お二人もご無事で何よりです」
進み出たナガトはユミと握手を交わす。その瞳はやる気に満ちあふれているものの、顔には皺が目立つ。満足に化粧も出来ない事もあるのだろうが、疲労は溜まっていそうだ。
「あの、母とコウはどうしてます?」
「あの二人はドックで搬入の指揮を執っているわ。警備局の船と少しやり合ったらしくて、搬入が少し遅れているのよ」
その言葉を聞いてナガトは表情を曇らせる。
「被害はあったんですか?」
「ああ、やり合ったという言葉はちょっと不適切だったわね。制止する警備局の船を、工作船で囲んで威嚇したってことみたい。別に攻撃されたとか、攻撃したとかそういう事じゃないって話よ。今はこっちへ向かってるわ」
「そうですか、そんなことが……。ひとまず現状の確認をした方が良さそうですね」
ユミによるとあと三十分ほどで片が付くということなので、シャワーでも浴びてから改めて会合を開こうと言うことになった。中を見て回りたいとだだをこねるユウキを拳で黙らせて、居住フロアへと向かう。流石に個室は準備されているのものの、シャワーは共同だ。
手に持ったわずかな私物を自室に放り込み、シャワールームへと向かう。大規模プールにあるような、カーテンで仕切られた共用シャワーだ。青いカーテンの向こう側から声が聞こえてくる。どうやらユウキとマサヒトが一足先に着いていたようだ。
「ねえねえ、マサヒトさん」
「ん? ユウキくん? シャワーの使い方分からないの?」
「いやいや、そうじゃなくってさ。マサヒトさんの裸見たことないし、仲良くなりたいなと思ってさ」
「えっ、えっ!?」
また馬鹿な事をとナガトはカーテンに手を掛けたが、そこで思いとどまる。百戦錬磨の兄、ヨシヒトとは違い、弟のマサヒトからは全く浮いた話を聞いたことが無かった。奥手だ奥手だと散々馬鹿にされたナガト以上に色恋沙汰に縁がなさそうなのだ。少し観察してみるかとカーテンから手を放す。
「子供の僕が言うのもなんだけど、マサヒトさんって可愛いし、エッチの相手沢山いるんでしょ? ナガト兄ちゃんとはいつも職場でヤってるの?」
「な、なに言ってるんですか! 私はナガトさんの秘書なんですよ、そんなこと出来るわけないじゃないですか!」
「あー、まああのナガト兄ちゃんだからねえ……」
小馬鹿にしたユウキの言いぶりにナガトは少しむっとする。カーテンの隙間から覗いてみると、ユウキが裸体をマサヒトにぴったりとくっつけ、脇腹に指を這わせて時折くすぐっている。どこかで見たような仕草だなと思って、コウだということに気が付いた。ユウキが成長し、コウのような身内がもう一人できると思うとぞっとする。ナガトは枯れてしまうかもしれない。一方のマサヒトはと言うと、兄から何も教えてもらってないのか身を堅くしている。
「念のため聞いておくけど、マサヒトさんって童貞じゃないよね?」
「ど、童貞って……ユウキくん、あなたまだ中等生でしょ! そういうことはちゃんと大人になってから……」
マサヒトの狼狽ぶりに、ユウキは少し身を離して首を傾げる。
「あー、ってことは入れたことはないのか。じゃあ、コッチは?」
「ちょっと、ユウキくん!!」
突然ユウキがしゃがみ込み、一目で未使用であることが分かりそうなマサヒトの真っ白な股ぐらに腕を突っ込む。
「うーん、この絞まり方はお尻もまだ使ったことないんだね。どうしよっかなあ……」
「ユウキくん、お願いだから辞めて下さい……」
中等生に股間をまさぐられ、マサヒトはアイパッチを赤く染めている。消え入りそうな可愛らしい声に、内股になって顔を背けるいじらしさは、ナガトでもそそられる程だ。これをわざとやっているならたいしたものだが、おそらく無意識なのだろう。
「あー、もう別にどうでもいいや!」
ナガトでさえそうなのだから、精力旺盛な上に行動力も無駄に高く、しかも衝動的という典型的な男子中等生にとっては我慢しろという方が無理だったのだろう。ユウキは強引にマサヒトをしゃがませると、尾びれの下に自らの頭を潜り込ませる。マサヒトもきっぱり断れば良いと思うのだが、相手が中等生でしかも上司の子供ということもあってか渋々従っている。その気弱さで良く今まで貞操を保てたものだとナガトは変なところに感心してしまう。
「ねえ、も、もういいでしょ?」
震える声でマサヒトが呼びかけるが、ユウキは何のそので粘着質の音をわざとらしく立てる。ナガトの位置からはよく見えないが、ユウキはおそらくマサヒトの窄まりに舌を這わせているのだろう。マサヒトが振り返ってユウキの股間からそそり立つ元気な幼根をちらりと見た。自分の将来を想像してか、その表情は今にも泣き出しそうだ。その後もマサヒトのささやかな抗議が繰り返されるがユウキは全く意に介さず、目の前の孔を解すのに夢中になっているようだった。
「うん、そろそろイケルかな」
ようやく頭を上げたユウキの先端からは、欲望のしるしが糸を引いていた。
「マサヒトさん、いいよね? 僕のはまだそんなに大きく無いから大丈夫だよ」
「……」
気遣っているようだが、実際は今すぐにでも挿入したいのだろう、ユウキは自身をマサヒトの太ももにこれでもかと押しつけている。息づかい荒く「いいよね?」と繰り返すユウキに、マサヒトは尾びれをゆっくりと持ち上げる。観念したのか、焦らされるユウキが可哀想になったのか、それとも意外とまんざらでもないのかもしれない。
「あんっ! ユウキくん、もうちょっとゆっくり……」
ユウキの脇腹を抑えて少しでも衝撃を緩めようとするマサヒトだったが、その程度では暴走する若い欲望は止められなかった。ユウキは「すげえ」を連呼しながら、腰を打ち付けている。マサヒトは少しでも苦痛を和らげようとしてか、自らのスリットにおずおずと手をやり、大きくなったモノを引き出すと軽く扱き始める。ただ、その動きは妙に緩慢としており、ナガトも今更恥ずかしがるようなことかと思わずにもいられない、上品でお淑やかなものだった。その間にもユウキのピストン運動は激しくなり、尾びれを前後に振って勢いを付けるほどになっていた。
「ああっ! そろそろ出ちゃうかもっ!」
そう言うやいなやユウキは一層強くマサヒトに杭を打ち込み、尻を振るわせる。しばらく余韻を楽しむようにマサヒトの背びれを撫でると、自身を引き抜く。この一丁前な仕草もコウに教わったのだろう。
「あっ!」
マサヒトが短い声を上げると共に、足の間から体液がこぼれ落ちる。クリーム色のタイルに落ちたユウキの精はピンクに染まっていた。
「マサヒトさん、すっげー良かったよ! シャチ種の穴って凄いんだね!! くっそー、ナガト兄ちゃんも入れさせてくれればなあ」
「ユウキくん、もう、いいですか……?」
興奮気味話すユウキに対し、マサヒトは息も絶え絶えといった様子だ。口ぶりは嫌々といったふうだが、当初よりずいぶん大きくなったペニスからは多量の粘液が垂れている。それに気が付いたユウキがにやけてマサヒトの顔を股間越しに覗き込む。
「僕のチンポ、良かった? じゃあ、今度はマサヒトさんのチンチンを気持ち良くさせてあげるね!」
そう言うとユウキはマサヒトを床に座らせ、自らの穴にマサヒトの陰茎をあてがうとゆっくりと腰を下ろしていった。
「ユウキくん!? そっちは駄目!」
マサヒトの悲鳴にも近い声はまるで性の乱れを嘆くかのようだった。自分が快楽の糧になることは許せても、その逆は倫理観が邪魔をするらしい。が、当のユウキには全く理解されるわけもなく、ずぶずぶと飲み込んでゆく。マサヒトは助けを求めるように周囲を見渡す。理性と粘膜同士の接触から得られる快感の狭間でさまよっているのだろうか。そのとき、マサヒトと目があった。
「あっ!」
ナガトはさっとカーテンから離れ、立ち上がる。マサヒトの処女喪失と童貞卒業を見ることが出来ただけで満足していた。後はユウキが色々教えてくれるだろう。
「ナガトさん!」
「あんっ! マサヒトさんのおっきくなった! やっぱりナガト兄ちゃんとしたいの? でも、多分やらせてくれないから今は僕で我慢してね。ほら、こうやったら気持ちいいでしょ?」
「いや、違っ……助けっ……」
ナガトは遠く離れたシャワースペースに移動すると、ボディソープを泡立てて丹念に身体を洗う。プールに飛び込んでからずっと塩素臭が気になっていたのだ。そうこうしているとまた事態が進展したのか、助けを求めるマサヒトの、悲鳴に近い声が聞こえてくる。それもまた人生経験だというようなことを考えながらナガトはシャワールームを出たあと、マサヒトに向けて終わったら引き続きユウキの面倒を見るようにとの書き置きを残して会議室へと向かう。
ナガトが会議室へ戻ると、ナツメとコウも既に室内で待っていた。これで三局長とナガト、コウの〝反執行部〟五人集が勢揃いしたことになる。簡単なねぎらいの言葉を交わし、早速情報交換に入る。三局長が情報を集め、コウがまとめたところによると、以前から少しずつ副指令所への移動を進めていたことが功を奏してヨシヒトからの警告を受け取った時点で人員の八割と資材――大半は食料品と熱源管理局のメンテナンス物資――も七割強が既に副指令所へと移されていた。熱源管理局の船も輸送用などのごく一部を除いて副指令所や各所にある小規模ドックに収納済みだ。指令システムはついさっき権限を移譲したところなので本格稼働にはまだ時間がかかるが、大きな混乱にはならない見込みだ。外部との交通手段はWエリアとSエリアを繋ぐ幹線トンネルを利用できるほか、海底側のゲートを使って船舶も利用できる。最大の懸念点は、船と指令室との通信をどうするかだった。水耕栽培施設や熱交換器、発電機といった三局が管理する設備との通信は回線を独自に引いているため妨害される可能性は低い。しかし、航行中の船舶と指令室とのやり取りには通信局が引いた海底ネットワークを利用せざるを得ない。そのため、最悪不通になる可能性を考えておく必要があった。ドーム付近の航行であれば指令室と直接やり取り出来るため問題ないだろうが、熱源――その多くはドームから離れた熱水噴出孔――の整備をする際など遠出となるとSOFARチャネルを使うといった対策を考える必要が出てくる。SOFARチャネルとは海中に出来る〝音波の道〟であり、温度と圧力の関係で音の速度が最低になる領域のことだ。そのSOFARチャネル内に音波を放つと、光ファイバー中の可視光線のように音波はSOFARチャネル内に閉じ込められるため、遠くまで届く。音波のため低速、狭帯域なのが難点だが、通信局のネットワークに依存しないため、唯一の通信手段になる可能性があった。
「こうやってまとめてみると被害はほとんど無いな。三局長をはじめ、各局の主要メンバーは全員待避済みで、俺とコウもこの通り元気だ」
そう口にしたナガトだったが、どこか腑に落ちない気がしていた。椅子に深く腰掛け直して背を逸らしながら息を吐くと、貧弱なパイプ椅子が悲鳴を上げた。準備を重ねてきたおかげで被害を抑えられたのだとも言えるが、相手方の失策で助けられた気もする。そのようなことを口に出すと、同じように感じていたのかナツメが頷いた。
「そうなのよね。慎重に慎重を重ねるあの人にしてはどうもツメが甘い感じがするの。そもそも動員された警備局員が予想よりずいぶん少ないでしょ? ナガトに撃退された警備局員もたった四名だったらしいじゃない。しかも、セントラルタワーから多くが移転済みってことが判明するとすぐに兵を引いた……。メンツにこだわるあの人にしては不自然だわ。見せしめに残っている職員を拘束したり、設備を破壊して私たちになすりつけるくらいはしてもおかしくないのに」
「もしかしたら、ヤツがまだ警備局を掌握し切れていないってことかもしれないな。だから動員数も少なくて、手荒なことも出来なかった。案外、兄さんが結構頑張ってくれているのかも……」
そんなナガトの意見を、ナツメが一蹴する。
「まったくあなたは相変わらず楽観的ね。何か裏があってもおかしくないわ。もしかしたら、私たちがここに追い込まれたのかも……。まあ、警備はもう少し強化すべきね。あの人を侮ってると足下をすくわれるわよ」
「そうは言ってもさ、知事は総務局を味方につけているんだから、電力使用量を見ればセントラルタワーから機能を移転したってことくらいは調べれば簡単に分かるはずだろ。にもかかわらず強行したってことは相当焦っているという証拠じゃないか? 例えば、警備局が支配を脱しつつあるとか……」
ナガトがそういったところで、たしなめるようにミサキが尾びれで軽く床を叩く。
「二人とも、落ち着きなさいよ。今は確かな情報もなしにあれこれ推測しても仕方ないでしょ。楽観的になるのも、あまり悲観的に見るのも良くないわ。まずはナツメの言うとおり警備を強化し、不審な行動をする職員が居ないか注意しましょう。さっき確認したとおり、ナガトくんが気合いを入れて計画してくれたおかげでここの守りは堅いの。周囲は分厚い隔壁で覆われているし、出入り口はトンネルと海底のみ、そして海底にはこのドームでも有数の船乗りがいる。通勤中の職員が拘束される可能性がないとは言えないけど、一般職員を下手に拘束すれば重要な装置のメンテナンスに支障がでるし、そのことは相手方も分かっているはず。あまり心配しなくても良いと思う。ところで、これからの反撃については考えがあるのよね、ナガトくん?」
ナガトは親子喧嘩を見られた気恥ずかしさを紛らわすように頭を掻く。
「ええ、はい。状況を整理すると、執行部はまず俺たち五人全員かその大半を拘束し、容疑をでっち上げる必要がありました。それと同時に三局の指令室を制圧する必要があった。だが、奴らはそれに失敗してこの通り全員が無事です。加えて俺たちは三局の財務情報を全て公開します。もちろん、その真偽を問題にされる可能性はありますが、少なくとも疑惑に対して協力する姿勢を見せておけばいきなり拘束する大義名分は得にくくなります。いきなり指令室を移したことに対して何か言われるかもしれませんが、それを規制する法律はありませんし、今まで通りの業務をこなせるのであれば違法行為にはされないでしょう。むしろ今回の事案を三局に対する不当妨害行為だと上院で追求できると思います。なので議会の場で徹底的抗戦して突破するのが……」
「そんなので皆を説得出来ると思ったら大間違いよ。ネットではもう私たちを悪者にしようとする流れが出来ているわ。確かに、正式に横領罪で立件しようとすれば無理でしょう。でもね、まるで犯罪が行われたかのように持っていくことは出来るの。正面から戦えば、そのうちウチの職員が市民に襲われるわよ? 対抗するにはこちらもそれなりの覚悟を持ってやる必要があるわ」
ナガトを遮ってナツメはそう言うと、皆に厳しい視線を向ける。その言動に、ナガトは眉をひそめた。普段から温厚とは全くいえない性格ではあるが、元パートナーである知事キミトが関わるとなるとその発言は一層過激になる。ナツメが言う〝覚悟〟とは一体何を意味しているのか、ナガトは不安に思った。
「ナツメさんの意見はその通りだと私も思います。私たちをドームを害するものに仕立て上げ、市民の不満を向けさせようとするでしょう。直接制圧にこそ失敗しましたが、不満が高まったところで未入植ドームの件を公表し、私たちをそこへ放り込むという計画を発表すれば形勢は一気に不利になります」
そう言うユミに視線があつまる。確かに横領罪を適用して三局長を解任するにはいくら市民の声があっても実行するには時間がかかる。それがもし、未入植ドームを適切に開拓するために、ドームの維持管理に長けたもの――つまりナガト達五人――をその前線に配置するという体であれば議会の賛同は得やすくなるだろう。例え島流しであっても大義名分があるかないかでは大違いだ。持って行き方次第では三局の職員にも同調者が現われるかもしれない。何しろフロンティア開拓の先駆者になれるのだ。実情は流刑地だったとしても外側を取り繕うことはできる。そうなれば結局、執行部の計画通りにことが進むというわけだ。分かってはいるが、有効な対策は思いつかない。
「横領罪云々を追求するのはあまり意味が無いと? それでは一体どうすれば良いというのです?」
手詰まり感からつい口調がとげとげしくなる。
「いえ、意味がないとは思っていません。もし未入植ドームの件が三局を妨害するためだけにでっち上げられたものだという方向に持って行ければ、その存在自体に疑問を抱かせることも可能かもしれません」
「確かにそれはそうかもしれません、でも……。そうすると後々、俺たちが開拓を進めるときに問題になりません?」
不満げなナガトの言葉にユミが頷く。
「ええ、それはその通りです。でも、背に腹はかえられないのではと私は思います。元々、未入植ドームは非公開のまま、秘密裏に進める予定でした。ドームの件イコール眉唾だと議会も一般市民も思ってくれるのならば好都合とも言えないでしょうか?」
二人の会話にナツメが口を挟む。
「ちょっと待ってよ、ユミ。簡単に言ってるけれど、執行部が妨害のために騒動を起こしたって証明するのはかなり難しい、というか不可能じゃない? そんなことが出来るなら私たちこんなに苦労していないわよ?」
「まあ、それはそうですが、未入植ドームに関するデータは私たちの方が多く持っています。それを使って……」
「あのさ、兄さんにコンタクトを取ってみるっていうのはどうかな? 今回の警備局の動きを見るに、知事が警備局の有力者、つまり兄さんの全面的な協力を得て動いているとは思えない。本気で動いていたらこの副指令所への引越も事前に察知されていてもおかしくないし、なにより警備船の出動数も少なすぎる。もし、兄さんの証言が得られれば強力な武器になるはずだと思うんだけど」
そう言うナガトに対し、ナツメがわざとらしくため息を吐いた。
「そもそも、未入植ドームの件が洩れたこと自体、あの子が原因かもしれないでしょう? キミトに完全降伏したとは私も思ってないけれど、あの子の立場を考えるとそんなに積極的に私たちに協力してくれるとは思えないわ」
その冷めた言い方に、一気にナガトの頭に血が上る。ナツメから見ると、主子に当たるナガトと違って、キミヤスは跡を継がない立場の従子だ。一般的には同じ自分の子供であっても、思いの寄せ方が違うのは良くあることだった。それが離婚後となると、なおさら差がつく。ナツメには感謝しているが、兄をキミト側の人間と思っていることに対してだけは憤りを抱いていた。
「ったく、いつも母さんは兄さんを目の敵にして! 兄さんはそんな人じゃねえよ! そりゃあ俺と違って、兄さんは立場上色々仕方ないところはあるだろうさ。でも、警備局の動きの鈍さを考えると、絶対に何かあるんだ。それこそこちらからのコンタクトを待ってるかもしれないじゃないか! それに前に相談しに行った時に見せてくれた態度は本物だったよ。その後も結果は出してくれている。なあ、コウ?」
救いを求めるナガトに対し、コウは黙ったままだった。目を瞑り、何かを思案しているようだった。冷静な態度を崩さないのはいつものことだ。コウは自分とは違って、安易な考えは口に出さない。それでも賛同してくれないコウの態度は、少なからずショックだった。尾びれを床にたたきつけて乱暴に座る。
「ちょっと二人とも落ち着きなさいよ。ナツメもそんな言い方ないでしょ? 少なくともデモ騒動の時にはキミヤスさんも助けてくれたんだし。あと、ナガトくんもちょっとは頭冷やして欲しいわね。私たちの切り札は誰でもない、あなたなのよ」
ミサキはコウにも目を向けたが、まだ目を瞑って動かない息子に対しては何も言わなかった。険悪なムードが続く中、ノックと共にお盆を手にしたマサヒトが会議室に入ってくる。お盆の上にはカップが並んでいた。ナガトが時計を見ると、会合を開いてから既に二時間が経過していた。
「皆さん、お疲れでしょう? 暖かいココアを持ってきましたので、一度休憩してはどうですか?」
マサヒトが腰をかばうようにゆっくりと歩き、カップを配っていく。ココアに口を付けたナガトは、水を飲み干してしまっていたことを後悔した。
半時間ほど休憩を取った後、五人は再度同じ会議室に集合した。甘ったるいココアのおかげか体力は少し回復したが、気分は晴れていなかった。三局長の顔にも疲れが浮かんでいる。気まずいムードが流れる中、口火を切ったのはコウだった。
「先ほどはすみません。自分の考えがなかなかまとまらなかったんです。あと……覚悟をなかなか決められなかったので」
〝覚悟〟の部分を強調するコウに、ナガトは嫌な予感がした。たぶんそれはナガトが最も避けたいものだ。そんなナガトの思いを知ってか知らずか、コウは先を続ける。
「私としてはやはり、政府執行部に私たちの地位保全と今回の騒動を引き起こした者への責任追及を求めてゆくしかないと思います」
「それが出来たら苦労しないだろ」
ぶっきらぼうなナガトのつぶやきに、コウが頷く。
「はい。その通りです。ただ、ただ頼むのではなく強制力を加えればどうでしょう?」
コウの応えに場が凍り付く。それはナガトを含め、ここにいる五人全員が一度は考えたことがあるはずだ。
「つまり……クーデターを起こすって事ね」
いつになく真剣な目つきでナツメが言う。
「ちょっと待ってくれ! お前は何を言っているのか分かっているのか? クーデターを起こすって事は下手すりゃこのドームを破壊することに繋がりかねないんだぞ!」
ナガトが声を張り上げる。跳ね上がった尾びれがパイプ椅子にぶつかり、宙を舞った椅子は大きな音を立てて床に落ちる。
「確かにこのまま事態が改善しなけりゃ未入植ドームは知事のコントロール下に置かれるだろう。もしかしたら俺たちも捕まるかもしれない。でもな、考えてもみろよ、俺たちがこうやって頑張っている目的はなんだ? このドームを生きながらえさせるためだろ? にもかかわらずクーデターを起こすだなんて本末転倒じゃないかよ!」
ナガトは他の四人を見渡す。誰とも目が合わなかった。
「力で強制したところでなんになる? 仮にクーデターが成功したとして、俺たちがこのドームを治められるのか? 市民から見たら全くもって筋が通らないじゃないか。無理だ。不可能だ。危険すぎる!」
息巻くナガトの斜め向かいで、ナツメが口を開く。
「私はコウくんの意見に賛同するわ。確かに民主的な手段で改善出来ればそれが最善なのは間違いない。でも、現状でそれが期待出来る? 形式としてはまだなんとか形を保っているけれど、彼らが今、政治的に真っ白な未入植ドームを手にすれば必ず独裁政治に転換するに違いないわ。いえ、たとえ未入植ドームがなくても彼らはそれを実現するでしょう。彼らが目指すのは他の全てを犠牲にしたドームの安定、正確にはシャチ種による支配体制の強化ね。ナガトの言うとおり、私たちがここでおとなしく執行部に従えば延命は出来る。でも、それが本当に正解なのかしら? 確かにシャチ種、つまり私とあなたにとっては良いかも。でも、イルカ種にとってはどうかしら? 今でさえ格差が問題になっているのに、それが拡大することになって良いの? それってあなたが望んでいること? 彼らに不満が溜まって爆発すればそれこそドームの破滅じゃない?」
ナツメの反論に、ナガトは言葉が詰まる。支配強化のきっかけになるのが、イルカ種が切り札として長年温存してきた未入植ドームだったとしたらなんという皮肉なのだろう。そしてナガトはそのきっかけを作ったことになるのだ。ただ、暴力手段に訴えるのはなんとしても避けたかった。ナガトの脳裏に、守り切れなかった少年の顔が浮かぶ。
「別に奴らに完全降伏しようだなんて言ってない。いきなりそんな強硬手段を取らなくても何らかの道はあるんじゃないか? 俺はガンコウドームの悲劇がここで起こるのを想像したくない」
「ガンコウとギョクツは同じにはならないわよ。ガンコウではシャチ種対イルカ種の全面対決になってしまった。一般市民も巻き込んで、それこそドーム全体で一気に内乱が起こってしまったからああなったのよ。互いに落としどころを考えずに暴走したせいでね。私やコウくんは何もそんな自殺的なクーデターを起こせと言ってるんじゃないわ。あくまで交渉の延長線上としての実力行使よ。破滅的な総力戦を防ぐためのね」
「母さんはそう言うけど、本当にコントロールなんて出来るのか? 今このドームは火薬庫だぞ? それに火を付けたらどうなるかは明らかじゃないか!」
ヒートアップする二人の間に、ユミが入り込む。
「二人とも落ち着いて。互いに感情で話しても結論なんて出ないわ。冷静になりましょう」
ナガトはそれこそこの話を持ち出したコウを槍玉に上げようかとも思ったが、さすがに思いとどまる。直情型のナガトにもそれくらいの分別はあった。それに、もしコウに刃を向ければ容赦なくイルカ種の代表としての立場で反撃してくるだろう。そうなればナガトは反論できる自信がない。究極的にはこれはイルカ種自身ががどうしたいかという問題でもあるのだ。ナツメもそれを分かっているのか、押し黙っている。
「ちょっといい?」
そう言って手を上げるミサキに視線が集まる。
「休憩中にウチの局員とも話したんだけど、ここの環境はやっぱりセントラルタワーに比べると貧弱みたい。何しろ、一局分の情報処理設備しかない場所に三局が居座っているせいで、どうしてもリソースが不足してるのよ。数ヶ月くらいならなんとかなるだろうけど、長期間になればなるほどメンテナンス不備の影響が出てくるわ。それに、セントラルタワーと違って、交通手段が限られているのもキツイわ。正直なところ、ウチの大気維持管理局ではあと半年も今の状況が続くと深刻なトラブルが発生すると予想しているの。指令室をセントラルタワーに移さないとドームの維持管理に影響が出るレベルになるってね」
ミサキは一度言葉を切ってナガトとナツメに目を向ける。
「私が言いたいことは、正攻法でいくにしろ、強攻策に出るにしろ、時間的な余裕はそれほど長くはないってことよ」
「警告ありがとうミサキ」
元パートナー同士ということもあってか、まるで示し合わせたかのようなタイミングでユミがミサキの後を継ぐ。
「それは食糧資源局でも似たような状況です。私たちはメンテナンスコストが安い上に大気維持局の設備ほど専門職員を要する訳じゃないのでまだ余裕はありますが、流通の管理に支障が出る可能性はありますね。ただ、一方で性急に結論を出してしまうのは良策ではないと考えます」
その意見には皆頷いて同意を示した。問題を先送りしているようで気持ちが悪いが、ナガトは突っ走ることの危険性を嫌と言うほど学んでいた。
「あと、私からもう一つ提案があります」
ユミがコウとナガトを交互に見る。
「今後の方針検討にはナガトさんとコウの二人が中心になって進めてもらいたいと思うのです。私たち三人は局長という立場ですし、なによりこれからの時代は若者に任せるべきではないかと」
不意を突かれたナガトは一瞬ぽかんとしたが、コウが頷くのを見て慌てて頷く。事前に承知はしていたが、このタイミングで問われるとは思ってもいなかったのだ。ナガトはゆっくりと息を吐き、気を落ち着けてから口を開く。
「ええ、わかりました。その件、引き受けます」
「同じく、承りましょう」
二人の返事に三局長から拍手が送られる。正式な承認はこの場が初めてだが、ナガトとコウの二人が今後を主導してゆくことは以前から練られていたことだった。三局長に比べると時間的に余裕があるのに加え、立場もシャチ種の上院議員であるナガトと、イルカ種評議会の次期代表であるコウは適任といえた。両種の運命を握るその責任は重大だったが、ナガトは逃げるつもりはなかった。それは隣にいるコウも同じだろう。
「私としては、まずキミヤスさんとコンタクトを取ることを最優先に行動すべきだと考えます。先ほど強攻策をとるべきだと述べましたが、それにも警備局を懐柔することは必要不可欠です。どの方向性で行くにせよ、キミヤスさんと相談してから決めても遅くはないと考えます。手続き的なことや立ち位置はナガトに任せますが、ひとまずの方針としてはこれで進めるつもりです。いいよね、ナガト?」
コウの言葉に頷き、ナガトも口を開く。
「ああ、それでいい。組織としては俺を長とする両種の将来を議論する議員連盟という形にします。意味があるかどうかは微妙ですが、立場を明確にしておけば後々何かの役に立つかもしれませんし。コウもイルカ種評議会の次期議長候補ということで資格は十分だと思います。後で兄さんにも参加してもらうのと、個人的に親しくしている議員数名にも名義を貸してもらうことにします」
ギョクツドームにおける議員連盟とは、何らかの政治的目的を持って議員が結成する連盟のことであり、議員が中心にはなるものの、各局の幹部職員や一般企業の重役、その他組織の中心人物が参加することも多い。もちろん、その連盟での決定事項が行政に直接影響を与えるというわけではないが、公的な記録に残ることが大きかった。ナガト達としては独断ではなく、議論した上で結論を出したということを記録に残したいのだ。また、結成における制限が少ないのも利点だった。下院議員であれば上院議会での結成の承認と活動の逐次報告が必要になるものの、上院議員が代表なら結成したことを報告するだけで良く、活動内容にもこれといった制限はない。
「では、今日のところはこれで。ある程度具体策が決まったらまた声を掛けますのでお願いします」
ナガトとコウが立ち上がり、一礼するとぱらぱらと拍手が送られる。ナツメは煮え切らない様子だったが、真剣にドームの将来を考えているからこその強硬意見であることはナガトも良く分かっていた。ただ、まだ他に道はあるとナガトは信じたかった。
ほんのりと暖かい水がナガトの白と黒の肌を潤す。背びれの付け根を伝う水流が、水滴が腹を打つ感触が、ずいぶんと心地よかった。そのような些細なことに安らぎを感じてしまうあたり、疲れが溜まってきているのかもなとナガトは思った。三局が副指令所に拠点を移して以降、ゆっくりと安らげるのは寝室とトイレ、それにシャワールームくらいになっていた。ひとたび独りになれる場所を離れれば、山のような帳票処理や書類の確認、同僚議員への根回しや各局との調整に追われる日々が待っている。本当の意味で休む間のない毎日を過ごしていたナガトだったが、今までにない充実感を覚えていたのも事実だった。それでもナガトの充実感だけでは事態は改善しない。三局長との会議後、ナガトとコウは今後の策について何度も話し合いを重ねていた。強攻策も考慮に入れるべきだというコウに対し、ナガトはなんとか反論しようと努力はしていたものの、時を重ねるごとにナガトに不利な方向へと進んでいた。ナガトや三局長はおろか、三局の管理職やイルカ種準上級市民に対してまで、根も葉もない悪評が毎日のようにネットニュースを騒がしている。執行部が捜査に対し、ノーコメントを貫いている事もそれに拍車をかけているようだった。ナガト達も横領疑惑には執行部の政治的意図があるという対抗記事を流してはいるものの、市民には受けが悪かった。〝政治的意図〟というのがどうにも不明瞭でわかりにくく、明確な証拠もないから当たり前だった。警備局の証言でも得られれば一気に逆転出来るのだろうが、ヨシヒトの助けを借りてもいまだキミヤスには連絡を取れていなかった。溜まった疲労のためか、水の流れる音を聞いていると眠気が増してくる。クリーム色に塗られた壁にもたれかかったまま、いつの間にかまぶたを閉じていた。
「ナガトさん! 起きて下さい、ナガトさん!」
マサヒトの声にナガトははっと目を開ける。いつの間にかシャワーは止まっていた。マサヒトはスーツに身を包んでいた。濡れるのも構わずシャワールームに入ってくるとは、よっぽど急いでいたのだろう。
「すまん、いつの間にか眠ってたようだ」
「大変なんです! ユウキくんが、行方不明なんです!!」
「ちょっと落ち着け、マサヒト。ユウキが行方不明ってどういう意味だ? 家出でもしたのか?」
急かされるようにタオルを受取り、身体をざっと拭いて頭部端末を身につける。ユウキの位置を検索しようとしたところで、ユウキの端末は通信機能を止めたままだった事に気が付いた。ナガトやコウの持つ端末と違って、探知防止の処置が行われておらず、通信機能を有効にしたままでは誰でもユウキの居場所を特定できてしまうためだ。緊急時にはユウキから連絡を取ることは出来るが、その逆は出来ない。
「気付いたのは何時だ?」
「ついさっきです。午後の授業にユウキくんが現われないので、直接部屋に行ってみるとこんな書き置きがあって……」
マサヒトが上着の内ポケットから折りたたまれた紙片を取り出す。そこにはユウキの字で「ちょっと買い物に行ってきます。夕方には戻ります。ナガトとコウには内緒にして下さい」と書かれていた。それを見てナガトは眉間に皺を寄せる。事件以降、ユウキをはじめ重要ポジションに就く職員の子息は指令所内で授業を受けられるようになっていた。ユウキは特に誘拐の危険性が高いと言うことで、一人では指令所外に出ないようにと言い聞かせていたのだ。活発な年頃の少年がそれに素直に従ってくれるか心配ではあったが、どうやらその不安が的中してしまったようだ。
「慌てて職員総出で探したんですが、見つからなくって……。あの、すみませんでした! ユウキくんに何かあったら全部僕の責任です!」
膝を付こうとするマサヒトの腕を掴む。
「今はユウキを探すのが先だ。全く、アイツは中等生にもなって今がどんな状況か分かってないのかよ」
マサヒトに深呼吸して気を落ち着かせろと言う。と同時に、こういうときほど冷静さが大事だぞと自分に言い聞かせる。何もユウキが誘拐されたと決まったわけではない。
「買い物と言うからには、この指令所を出たんだろう。ゲートの記録はチェックしてみたか?」
「え、は、はい。そこはチェックしてはみましたが、ユウキくんが通った記録は無くって……」
「裏ゲートだ。あそこのログはネットワークとリンクしていない。それに、人通りも滅多にないからこっそり出掛けるには最適だ。まあ、職員の誰かを色仕掛けで買収してメインゲートから出た可能性もあるが」
「色仕掛けですか? そんな、まさか……」
怪訝な表情を浮かべるマサヒトに、ナガトは笑いながら応える。
「お前は仕掛けられなかったか?」
「えっ……あっと……それは……」
しどろもどろになる様子を見て、ナガトは再度笑い声を上げた。
「全く、もうちょっとヨシヒトを見習えよ。中等生に誘惑されて困惑するようじゃ、これから大変だぞ? さあ、雑談はこれくらいにして裏ゲートへ向かうぞ」
そう言うとナガトは、マサヒトの背中をぽんと押して更衣室を後にする。裏ゲートはナガト達が最初に来たときに通った寂れた旧管理棟に繋がる出入り口のことだ。買い物と言うからには、行き先は商業地区だろう。WエリアとSエリアを繋ぐ幹線道路に出れば、公共バスを使って商業地区に行くことが出来る。しかしそれには、大勢の職員が出入りするメインゲートを通らなければならない。その中には当然、ユウキの顔を知っている職員も多い。自分とコウには秘密にしてほしいと言うからには、知り合いに会うことも避けたいと思うのが普通だろう。裏ゲートから出れば何もない旧管理棟にしかいけないが、そこから二、三十分歩けば商業地区に行ける。そしてそれをユウキは知っている。ナガトは念のためにコウにも連絡を入れて裏ゲートへと走った。
頭部端末とゲートを有線接続し、ログを見るとユウキが通過したことが分かった。自分の読みは正しかったが、通過時刻は一時間以上も前だ。
「どうします? 職員を向かわせますか?」
マサヒトの問いに、ナガトは首を振った。ユウキが通信機能を止めたままである以上、敵もユウキが指令所外に出ている事は察知できないのだ。多くの職員を派遣すれば、逆に何かトラブルがあったのだと知らせるようなものだ。加えてユウキのためにもなるべく大事にはしたくないという親心もあった。ユウキは自由に遊びに行けないことに退屈しただけなのだろう。その気持ちはナガトにも良く分かった。とはいえ、状況が状況だけに我慢してもらわなければならない時期でもあった。連れ帰ったらきつめに叱らないといけない。
旧管理棟から表に出たナガト達は、荒れ地の向こう側へと走る。以前、ここに来たときに使った三輪自動車は既に持ち主へと返した後だった。
「はぁっ、はぁっ、どうやって、みつけるんです?」
既に息の上がった様子のマサヒトが声を上げる。ナガトは内心でマサヒトの運動不足をなじりながらも少し速度を落とす。
「あそこには何人か知り合いが居る。いくらイルカ種の町だと言っても、中等生が一人で行くような町じゃない。生鮮食品や日用品が中心で、玩具やお洒落な服が売ってるわけじゃないからな。おばさん連中に話をすれば場所なんかすぐ分かるさ」
マサヒトがぽんと手を打って頷く。この前、商業地区を通過したときの商魂たくましい女性を思い浮かべでもしたのだろう。
商業地区に着くと、憩いの広場公園へと向かう。〝知り合い〟に連絡を取って待ち合わせ場所にした旧管理棟に一番近い公園だ。町の一番端にあたり、ほとんど整備もされていないためか数人の老人が散歩を楽しんでいるくらいだ。そんな静かな環境の中、すっかり水も涸れ果てた噴水の向こう側から、顔なじみの女性が近づいてくる。ナガトが学生時代に良く通っていた定食屋の奥さん、ノリコだ。歳はナガトより二回りは上のはずだが、年齢を感じさせない細身の体型をしている。ちなみにノリコというのは本名ではなくあだ名だ。例え自営業者であっても政府が決めた命名規則からは逃れられない。ノリコは二人に近づくやいなや、ナガトの肩を手でぽんと叩く。
「ちょっとナガト、あなた大丈夫なの? ニュースでやってたわよ、あなたたちが色々悪いことしたって。ほら、私はそんなこと絶対にないって分かってるけど、ウチのお客さんは怪しいって言う人も居てさ。もう、私は心配で心配で……」
「ノリコさんこそ大丈夫か? トモさんが倒れたって聞いたぞ」
そう言うとナガトはノリコを軽く抱擁する。
「あー、あの人なら大丈夫よ。大げさに言っているだけだから。それよりも大変なのはあなたよ。突然どうしたのよ、子供を探せだなんて……もしかして、隠し子? あら、そっちの可愛い子ははじめてよね?」
〝可愛い〟というキーワードに反応したからか、それともノリコの勢いに気圧されているからか、マサヒトの表情は強ばっている。
「コイツは俺の部下のマサヒトだ。何を隠そう、あのヨシヒトの弟だぞ」
ナガトに背を押されたマサヒトがぎこちなく会釈を返す。ノリコはというと、視線を上下させてなめ回すようにマサヒトを見る。
「あなた、本当にあのヨシヒトの弟さん?」
「は、はい。あの……なにか?」
「うーん、なんだかオーラが違うねぇ……。いや、悪い意味じゃないのよ。こんな真面目そうな子があのヨシヒトの身内とはとても思えなくて、ねえ?」
ノリコの視線に、ナガトは苦笑しながら頷く。ヨシヒトは可愛らしい学生を見つけると手当たり次第に手を付けようとするため、年頃の子供を持つ親からは決定的に警戒されていたのだ。
「あなた、お兄さんみたいになっちゃだめよ? 今はモテなくても真面目な子の方が将来はモテるんだから。このナガトみたいに、ね? 私も若い頃はそりゃあモテなかったけど、なんとか真面目そうな人見つけて結婚してこうやってるんだからね」
神妙な面持ちでマサヒトが頷く。二人のやり取りを面白がって見ていたナガトだったが、ゆっくりしていられないことを思い出して間に入る。
「ノリコさん、自己紹介はそれくらいにしてユウキの情報入ってないか?」
「あ、そうそう。そのユウキくんを探してるんだったわね。ウチの仕入れ元に聞いてみたんだけど、見慣れない子が三番街の方へ歩いて行くのを見たらしいわよ。中等生があんなところに行くのは珍しいから目についたみたい」
「三番街か、食材店が集まってるところだな……。ありがとう、ノリコさん。ちょっと急いでるから今日はこれくらいで。また時間あったら店に顔出すよ」
そう言うとナガトはマサヒトの尻を突いて市街地へ足を向ける。三番街はこの商業区画の食料庫的な存在で、ナガトもよくお世話になっていた。ユウキが何故そんなところへ向かったのかは分からないが、少なくとも危険な区域ではない。
「気をつけなさいよ! 私たちはあなたのこと信じてるけど、そうじゃない人も多いからね!」
後ろから聞こえるノリコの元気な声に、ナガトは手を上げて応えた。
ユウキが向かった三番街へ向かう二人の足は、自然と速くなっていた。一刻も早くユウキを見つけたかったということもあるが、周囲から向けられる視線が気になっていたからだった。その視線は人通りが多くなる市街地に入ってから強くなっていた。声こそかけられはしないが、すれ違った人の何人かが悪態を吐くのが聞こえた。
「不穏、ですね」
もはや小走りに近い速度で歩くマサヒトが、ナガトに耳打ちする。ナガト自身もこれほど多くの人から明確な敵意を向けられるとは考えても居なかったため戸惑っていた。このイルカ種が多くを占める商業区画はナガトにとっては個人的な思い出の地であり、両種の友好を目指す政治家ナガトとしても思い入れのある大切な地域だった。学生時代から今まで、コツコツと信頼関係を築いてきたつもりだっただけに、向けられた不信の目は少なからずナガトに衝撃をあたえた。
「早くユウキを見つけて撤退した方が良いな」
そう言いながらナガトは更に足を速める。市街地の奥に入るにつれ、敵意を持った民衆の気配が増えてくる。もはや衝撃を通り越し、危機感さえも覚えはじめていた。無意識のうちに噴気孔から息が漏れ、クリック音が鳴る。空気中では無意味であることは分かっていても、周囲を警戒する時についついクリック音を鳴らしてしまうのは船乗りのクセだった。
幸いなことに、食材店が軒を連ねる三番街に入って五分も歩かないところで、珍味を売る店から出てきたユウキに出くわした。ナガト達の姿をみとめたユウキが、慌てて手に持つビニール袋を後ろに隠し、やあと言って手を上げる。
「ユウキ! おまえ、今がどんな状況下分かってるのか!」
大声を上げるナガトをマサヒトが慌てて止める。
「ちょっと、ナガトさん落ち着いて下さい。あんまり騒ぐとまずいですよ」
そう言いながらマサヒトはきょろきょろと周囲を見渡す。今まで緊張を強いられていたこともあり、すっかり頭に血が上っていたナガトは、構わず声を荒げる。
「全く、お前って奴はいつもいつも勝手に行動して! お前もあの中にいたら皆がどんなに苦労してるか分かってるだろ!」
怒鳴り声を上げるナガトに、ユウキは伏し目がちに「ごめんなさい」とつぶやく。いつもなら言い争いになるのだが、こうも素直に謝られるとナガトも拳の降ろしどころに困る。
「……分かってるなら。まあ、いい。かえったらコウと一緒に説教だから覚悟しておけ」
「はい」
すっかりしょげた様子のユウキに、ナガトは訝しんだ。コウの名前を出せば、告げ口させまいと懐柔策に出るのが恒例行事だ。いつもと違う反応を見せるユウキに戸惑うナガトに、マサヒトが耳打ちする。
「ナガトさん、早く退散した方が良さそうですけど……」
マサヒトの視線の先を追うと通りの向こう側に若者の集団が見えた。こちらを指差して何か話している。イルカ種の町で図体の大きなシャチ種はどうしても目立つ。若者達がただのごろつきなら良いが、ニュースサイトでは何度もナガトの事が報道されていることもあって自分たちが何者か気付かれている可能性もある。
「詳しい話は帰ってからだ」
そう言うとナガトはマサヒトを先行させ、間にユウキを挟む形で商業区画の出口へと足を向ける。いまや、この町は敵地になってしまったような気がした。状況はナガトの想像以上に悪くなっているようだった。
閑散とした三番街も出口にさしかかり、ナガトは後ろを振り返る。若者の集団は見えない。まだ安心は出来ないが、大通りに出れば人通りも増える。人通りが多くなればいきなり襲われる可能性は下がるだろう。
「コウさんから連絡ありました。すぐにコッチに向かってくれるそうです。ユウキくんを保護したことはもう伝えています」
「そうか。目立ちたくないから、公園までで良いと言っておいてくれ。出来れば車で来てくれれば助かる」
ユウキが無事見つかった以上、もう人手は必要ないが、旧管理棟までの道のりを帰りも歩くのは面倒だった。当のユウキはと言うと、歩き始めてからずっと黙りを決め込んでいる。何か声をかけようかとも思ったが、まだユウキの自分勝手な行動に腹を立ててることもあって止めておいた。こんなところで口論になっては余計に目立つだけだ。
三番街を抜けて大通りに入り、中央広場に入ろうとしたところで目つきの悪い三人組の男が睨んでいる事に気が付いた。タンクトップの上に汚れが目立つ作業着を羽織っている。イルカ種にしても恵まれた体格とはいえなかったが、腕や手の怪我の跡を見るに機械工業系の肉体労働者であろうと思われた。マサヒトが振り返ってナガトを見る。ナガトは避けるようにあごで指示をした。距離を取って通り抜けようとしたナガト達だったが、リーダー格と思われる男が進路に立ちふさがる。
「おい、お前ら。俺たちの町で勝手に何やってんだよ」
怖じ気づいたのか、すっかり血の気が引いているマサヒトを押しのけてナガトは前に進み出る。
「別に何もしてなんかないですよ。単に通り抜けようとしていただけで」
「はあ? 何もしてないって事はないだろ。俺たちは知ってんだよ、お前が大声上げてそこのガキを連れ去ろうとしたって事はよ。ここは俺たちイルカ種の町だ。こんな勝手されたら困るんだよ」
男がユウキを指差す。その男の人差し指は第二関節から先が無かった。事故で失われたのか、それとも他になにか原因があるのか。ナガトが周囲にちらりと目をやると、三番街で見た若者の集団が、こちらを指差して騒いでいるのが見えた。ニュースを見る知能もなさそうだ。単に因縁を付けに来ただけだろうとナガトは判断する。おそらくナガト達が何者なのか知りもしないだろう。荒事には慣れているようだったが、体格差のあるシャチ種を相手にしたことはないはずだ。
「まあ、こちらとしても出すもん出せば見逃してやらんこともねえ。見たところ、そのお坊ちゃまは事を荒立てたくねえようだが、どうする?」
いやらしい笑みを浮かべた男はマサヒトを顎で指す。どうやらマサヒトの事をイルカ種の子供を買いに来た金持ちで、自分はその護衛とでも思っているのだろう。
「何度も言っているが、俺はこの子を連れ戻しに来ただけだ。騒がした事は謝るが、それに対してお前に罰金を払う義務もないだろ。用がそれだけなら通らせてもらうぞ。急いでるんでな」
そう言うとナガトは強引に男を押しのける。男はナガトの手を掴むが、腕力はナガトの方がずっと強い。男は振り払われる形でよろけた。その隙にナガトはマサヒトとユウキを中央広場へと逃がそうと押しやる。
「ナガトさん!」
マサヒトの悲鳴に、ナガトが振り返った。中央広場には例の若者の集団がナガト達を取り囲むように立ちはだかっているのが見えた。いつの間にか野次馬も集まってきたようで、興味津々な様子で遠巻きにナガト達を観察している。ナガトはまずいことになったと舌打ちする。
ナガトと男達のにらみ合いが続く中、野次馬の中の一人が声を上げた。
「おい、あいつらってニュースでやってたナガトとか言う上院議員じゃないか? ほら、汚職で捕まったとかいう……」
「お、ホントだ! あいつ、あのガキを攫おうとしてるみたいだぜ」
それをきっかけに、群衆の間にざわめきが広がる。その多くは税金を横領しただの、イルカ種の準上級市民に取り入って一般労働者を搾取しようとしているだなどといった悪意ある噂話がほとんどだった。ナガトは思わず反論しそうになったが、グッと堪える。ここでは喧嘩などただの娯楽だ。言葉で対抗しても聞く耳を持つ者など居はしない。
「シマさん、そいつらひっ捕まえれば賞金でも出るんじゃねえ?」
若者の中の一人がナガト達を指差しながら言う。シマと呼ばれたリーダー格の男は、下品な笑い声を上げると一歩前に進み寄ってきた。
「がはは、なんだそっちのちっこい奴がご主人かと思ったら、デカイのが頭か。にしてもとんだ悪党じゃねえか。イルカ種のガキに手を出そうとするとは、情けねえ上院議員様だな! おっと、おとなしくしろよ?」
そう言うとシマと他二人の男がナイフを取り出す。
「おとなしくすれば半殺しで済ませてやるよ。俺はなあ、ずっとお前らシャチ種が気にくわなかったんだ」
目端でシマの背後を確認したナガトは、尾びれを地面におろして腰を落とす。
「そうか、俺もさっきからお前らのことが気にくわなかったんだ気が合うな!」
言うが早いか、ナガトはシマのナイフをはたき落とすと、シマの顔面に拳をたたき込む。尾びれのバネを使った踏み込みで、その拳には大きな運動量が乗っている。拳はマズルの横にクリーンヒットし、シマの身体が吹き飛ぶ。野次馬からは悲鳴と歓声とが混じった声が上がった。ナガトの強烈な反撃にシマの連れの男達は呆気にとられていたが、その中の一人が気を取り直してナイフを向ける。右肩にタトゥーを入れたその男は、ナガトに向かって威勢の良い言葉をぶつけたが、結局なにも出来ずにゆっくりと崩れ落ちた。男の背後には警棒を手にしたコウが立っていた。
「助かったよ」
「全く、もう少し慎重に行動してよね。どうせトラブっているだろうと思ったら案の定これだもの」
周囲では、コウの仲間が逃げようとする暴漢を次々取り押さえている。彼らはイルカ種評議会の〝自治協力隊〟だった。治安維持は基本的に警備局が独占しているが、ごく一部の地区ではイルカ種自身が治安維持を行える場所も存在する。この商業地区は彼らの職場だった。
二人がすっかり暴漢から注意を逸らしていたそのとき、地面に突っ伏していたシマの身体がぴくりと動いた。シマの目が手の先にあるナイフに注がれる。その様子を唯一見ていたのはマサヒトの背に隠れていたユウキだけだった。シマが膝を着いてナイフに手を伸ばす。シマの恨みのこもった視線はナガトへと向けられていた。ユウキは声を出す前に身体が動いていた。自分の勝手な行動がこんな大騒ぎを招いてしまった。ユウキにとってナガトもコウも大切な存在だった。そしてそれ以上に、この二人はドームに住む全ての人間の将来にとっても欠かせない存在だ。それこそ、自分なんかよりよっぽど重要な人物なのだ。
ユウキは迷わず地面を蹴り、全速力でシマへと突進する。事態に気が付いたマサヒトが悲鳴を上げた時、ユウキは既にナイフを掴んだシマの腕へ噛みついていた。
「このガキ!」
シマが振り落とさんとユウキを蹴り上げる。それでもユウキは顎の力を緩めず、懸命に食らいついていた。シマの膝が再度みぞおちに入り激痛が走る。悲鳴を文字通りかみ殺し、
シマを睨み付けた。口の中に鉄の味が広がる。このまま噛みちぎってやろうとさらに力を込めたそのとき、ナイフを持ち替えたシマがユウキに向かって腕を突き出す。脇腹が熱い。突然、眼前のシマが大きな尾びれに吹き飛ばされる。駆け寄ってきたコウに大丈夫と言おうとしたが、力が入らなかった。
ナガトの足先がシマの腹へと突き刺さる。シマの口からはぐえっという呻きと共に茶色い液体が流れ出た。
「ナガトさん、これ以上やったら死んじゃいますって!」
「止めるな! コイツはユウキをっ!」
なおも暴行を加えようとするナガトを、マサヒトが必死の形相で止める。ユウキのTシャツに滲んだ赤い染みを見て、ナガトの理性は完全に吹き飛んでいた。怯えた目で自分を見るシマが許せなかった。相手が弱いとみるや強気に出るくせに、いざ劣勢になると媚びるそんな態度に腸が煮えくりかえった。そんな卑劣な存在が我が子のように可愛がっているユウキを傷つけるなど断じて許せない。本気で殺してやろうと一歩踏み出したナガトに、コウの容赦ない平手が見舞われる。乾いた音に、一瞬場が静まった。
「そいつらはウチで面倒見るからナガトはもう手を出さないで。あと、ユウキは無事だから。病院まで付き添ってやってよ」
「……分かった」
我に返ったナガトは、唾をシマに吐いて踵を返す。コウの言うとおり、ユウキの傷は浅そうだ。血は出ているが、かすった程度で内臓までは傷つけられてはいないだろう。ユウキの必死の攻撃で手元が逸れたのが幸いしたようだ。むしろ蹴り上げられた時のダメージの方が心配だった。
「ごめんなさい」
ナガトを見て涙を流すユウキを、そっと抱きしめる。ナガトの脳裏に、無念のうちに絶命した少年の苦悶の表情がふと思い浮かんだ。コイツだけはなんとしても守ってみせる。そうナガトは心の中で誓い、ユウキの顔をそっと撫でた。
本作の主人公。シャチ種とイルカ種の対等な関係を築くべく日々奮闘している。
大気維持局の課長でナガトの恋人。暴走しがちなナガトのブレイン役。
ナガト、コウに育てられる性欲全開の男の子。可愛いけどしたたか。
ナガトの主親で熱源管理局局長。イルカ種に理解があり、ナガトを支援する。キミトとは別れ、今はミサキと付き合っている。
ナガトの従親でドームの知事。ナガトとは敵対関係にある。
ナガトの兄で上院議員。エリートと呼ぶにふさわしい能力の持ち主でナガト憧れの存在。
大気維持局の課長でナガトの恋人。暴走しがちなナガトのブレイン役。
コウの主親で大気維持局局長かつイルカ種最高評議会議長。ユミとの関係を解消し、今はナツメと関係を持つ。
コウの従親で食料資源局局長かつイルカ種最高評議会副議長。今は独身。
ナガトをサポートする専任秘書。甘党でビビり。
ナガトの親友で通信局勤務。色仕掛けを得意とし、有益な情報をナガトにもたらしてくれる。